バイブル・エッセイ(368)神は決して見捨てない


神は決して見捨てない
 エスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)
 これはなかなか分かりにくいたとえ話です。しつこくつきまとう女性のために不正な裁きをした裁判官の話しが、なぜ神の裁きとつながるのでしょう。その疑問を解く手がかりは、この女性が「やもめ」だったことにあると思います。当時のユダヤ社会で、夫を失った女性は差別されたり、騙されたりしてとても弱い立場に置かれていたのです。窮地に追い込まれた「やもめ」が、最後の頼みの綱である裁判官のもとを何度もしつこく訪れていたのだとしたら、この話はずいぶん違ったものに聞こえるでしょう。裁判官は、この女性のしつこさにうんざりして、正しい裁きを実現したことになります。
 「神を恐れず、人を人とも思わない」裁判官でさえ、自分の生活を守るためならば苦しんでいる者のために正義を実現する。まして、人間のために一人子イエスさえも送り出して下さるほどの神が、苦しんでいるわたしたちを放っておくことがあるだろうか。神が苦しんでいるわたしたちを見捨てることは絶対にない。それが、今日の福音のメッセージだと思います。それを信じて疑わないことが、すなわち信仰なのです。その信仰を生き抜き、証することがわたしたちの使命だと言っていいでしょう。
 先日久しぶりに、わたしの古巣である東京、山谷の「神の愛の宣教者会」の修道院に行ってきました。20年ほど前、毎週のように通って、ホームレスの皆さんのための炊き出しを手伝わせてもらっていた場所です。炊き出しを手伝った後、昔なじみのブラザーやボランティアたちと古いアルバムを見ながら思い出話に花を咲かせました。そのとき、あるボランティアが、写真の中の1人を指さしながらわたしに「この人覚えてる?このあいだ亡くなったんだよ」と教えてくれました。それは、忘れもしない、ボランティアのKさんでした。毎週のようにやって来ては、みんなが嫌がるような仕事も率先して引き受けて働いていた、とても頼りがいのある方でした。仲間のボランティアたちは、彼の訃報に接して「あの優しいKさん、お世話になったKさんに最後のお別れをしたい」という一心で葬儀に参列したそうです。そこで、思いがけないことが分かりました。なんとKさんは、従業員が何百人もいる大きな会社の社長さんだったのです。
 服は質素だし、物腰は柔らかだし、偉そうな気配はまったく感じられない人だったので、その話を聞いてわたしも驚きました。きっとKさんは、どんなに忙しくても、どんなに物質的に満たされていても、苦しんでいる貧しい人々を放っておくことができなかったのでしょう。そうだとすれば、彼の生涯こそ、「神が苦しんでいる人々を見捨てることは絶対にない」ということの確かな証だと思います。彼は、口先だけでなく、生き方そのものによって「神が苦しんでいる人たちを見捨てることは絶対にない」ということを証したのです。
 もしわたしたちが苦しんでいる人たちに目を閉ざすなら、「神が苦しんでい人たちを見捨てることは絶対にない」とどれだけ声高に叫んでも、それはまったく無意味でしょう。「神が苦しんでいる人たちを見捨てることは絶対にない」という信仰は、まず自分自身がそれを確かに受け止め、その愛を隣人に対して実践することによってのみ証されるのです。Kさんのように、最後の日までこの信仰を守り、証し続けることができるようにと心から願わずにいられません。
 
※写真…隅田川、白髭橋のたもとからの風景。