祈りの小箱(73)『愛された罪人』


『愛された罪人』
 聖イグナチオは、4週間にわたって続く黙想の指導書『霊操』の第1週を、自分自身の罪深さと向かい合うための黙想に当てています。自分の罪の深さを知れば知るほど、そんな自分をゆるし、ここまで生かして下さった神の愛を深く知ることができるからです。黙想者たちは、自分がどれほど罪深いかをいやというほど味わった後、それでも神様から愛されている自分、「愛された罪人」である自分と出会うことになります。そして、イエスの生涯をたどる第2週の祈りの旅へと出発してゆくのです。「罪人だが愛されている、愛されているが罪人である」という自覚、「愛された罪人」としての自覚は、イグナチオの霊性を生きる者すべてにとって、出発点となる自己認識だと言っていいでしょう。
 この自己認識は、イエスの後について行きたいと願う者にとって本当にすばらしい立ち位置だと思います。「自分は愛されている」という自覚だけでは、「私は特別に恵まれた人間なんだ、他の連中とは違う」といった霊的なエリート主義に陥っていく可能性があるでしょう。逆に、「自分は罪人」だという自覚だけでは、「わたしには生きている資格がない」というあきらめや、罪がないように見える人たちへの嫉妬などに陥っていくかもしれません。しかし、「愛された罪人」だと思うとき、わたしたちは謙遜さを失うことなく、生きていくために必要な自分への信頼を持つことができるのです。「罪人だが、しかし神から愛されている」「わたしは愛された罪人だ」という自覚こそ、イエスの弟子として生きようとする者にとって最もバランスのとれた立ち位置だと言えるかもしれません。この立ち位置をとった人だけが、傲慢にも卑屈にも陥らず、まっすぐ神の前に立てるからです。
 信仰生活を重ねて自分に自信を持ち、他の人々を裁くような傲慢に陥ったら、ただちに「自分は罪人である」ということを思い出しましょう。そのような傲慢は、わたしたちを思い上らせて神から遠ざける悪魔の罠だからです。逆に、信仰生活の中で自分の無力さに打ちのめされ、「自分はどうしょうもない罪人だ」と考えて自分を責め、隣人を羨ましがるような卑屈さに陥ったら、「自分は神から愛されている」ということを思い出しましょう。そのような卑屈さも、神からわたしたちを遠ざけようとする悪魔の誘惑だからです。「愛されている罪人」としての自覚から迷い出ない人に、悪魔は絶対に手を出すことができません。神の前にわたしたちを正しく立たせ、あらゆる悪魔の誘惑からわたしたちを守ってくれる「愛された罪人」としての自覚を、しっかり胸に刻み込みたいと思います。
★このカードは、こちらからダウンロードできます。⇒
JPEG 『愛された罪人』.JPG 直
PDF 『愛された罪人』.PDF 直