バイブル・エッセイ(370)復活の命


復活の命
 エスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ20:34-38)
 人間の命は死によって終わるものではない。たとえ肉体が死に、地上での命が終わっても、永遠の命に移されるだけだとわたしたちは固く信じています。ですが、永遠の命とは一体どんなものなのでしょう。「めとることも嫁ぐこともない」などと言われると、仲のいい夫婦や、天国で先だった配偶者と再会することを楽しみにしている方は不安を感じるかもしれません。そこで今回は、永遠の命について考えてみたいと思います。
 「芋虫にとっての死は、蝶にとっての誕生」と、中国の故事にあるそうです。肉体の死と復活に似た話だと思います。芋虫も蝶も同じ一匹の虫がとる姿ですが、地面を這い、葉っぱを食べる芋虫には、空を自由に舞い、花の蜜を吸う蝶の生活を想像することができません。そのため芋虫は、仲間の死に直面して「もうあいつは地面を這うことも、葉っぱを食べることもできない。かわいそうに」と思うことでしょう。自分自身の死に直面しては、「ああ、もう地面を這えなくなる。葉っぱが食べられなくなる」と嘆くかもしれません。
 しかし、それらの思いは、空を自由に舞い、甘い花の蜜を吸って暮らす蝶から見ればまったく滑稽なものです。空を自由に舞う楽しさ、花の蜜のおいしさを知った後で、誰が地面や葉っぱを恋しがるでしょうか。肉体の死と復活についても、これと同じことが言えると思います。私たちには想像できないだけで、復活の命は地上のどんな楽しみや喜びにも比べられないほどすばらしいものなのです。
 復活することで、わたしたちは自分の本来の姿になると考えてもいいいでしょう。地上で生きているあいだ、わたしたちは心に様々な傷を負います。そして、その傷をかばいながら、不完全な形で人と接しているのです。例えば、母親との関係で大きな傷を負った人は、その傷をかばうために母親を悪者にし、自分を正当化する場合があります。そのような防御壁を作ることで、傷をかばっているのです。この防御壁は、たとえ夫婦であっても越えることができません。そのことについて話題にするだけでも、2人のあいだには険悪な雰囲気が漂うことでしょう。どんなに愛し合う2人でも、相手のそのような部分にだけは決して入っていくことができないのです。
 復活のときには、そのような心の傷がすべて癒され、2人を隔てる壁はすべて取り去られます。互いにすべてをさらけ出し、完全に愛し合うことができるようになるのです。そのとき、2人の間には地上での絆よりもはるかに強い絆が結ばれることでしょう。地上で始まった不完全な愛は、復活の世界で完成されるのです。夫婦のあいだだけではありません。復活の世界では、心の傷と、それを守るための防御壁が作り出すすべてのトラブルが解決され、人々は互いをありのままに受け入れられるようになるでしょう。
 復活の命に不安を感じる必要はまったくありません。わたしたちには想像もできないほどすばらしい世界、すべての傷を癒され、完全な形で愛し合うことができる復活の世界がわたしたちを待っているのです。地上の生活、地上の不完全な人間関係に執着することなく、復活へと続く道を歩き続けましょう。
※写真…イエズス会神戸修道院の柿の木。