バイブル・エッセイ(374)悔い改めの実り


悔い改めの実り
 ヨハネは、ファリサイ派サドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ3:7-12)
 「悔い改めにふさわしい実を結べ」、「よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。ヨハネはとても厳しい口調で、悔い改めにふさわしい行動をとるよう人々に呼びかけます。なぜ、そこまで行動にこだわるのでしょうか。それは、心の底から悔い改めたなら、それは必ず行動に表れ「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」からだと思います。
 あるとき信者さんが、聖書に出てくるある罪について「自分は絶対にこの罪を犯さない」と断言しました。「なぜ断言できるんですか」とわたしが尋ねると、彼はこう言いました。「わたしは若いころ、その罪に陥って本当に苦しみ抜いたのです。すべての希望を失い、闇の底を這いまわっていたとき、神父と出会って救い出されました。あのときの地獄のような体験を思い出せば、もう絶対にあの罪に陥りたいとは思いません。」その答えを聞いて、わたしは深く納得しました。罪が生む苦しみを味わい尽くした人、罪の恐ろしさを骨身を持って味わった人は、悔い改めて救われたとき、もう2度とその罪を犯したいと思わなくなるのです。本当に悔い改めた人は、同じ罪を犯さなくなる。それが、真実の悔い改めの結ぶ第一の果実だと言っていいでしょう。
 またあるとき、刑務所から出て来たばかりの人たちの世話を熱心にしている信者さんと出会いました。彼らを自分の家に招き、骨身を惜しまず世話をする彼の活動に驚いて、わたしは「なぜそこまでできるんですか」と彼に尋ねました。すると彼はこう言いました。「実は、わたしも若いころ、罪を犯したことがあるのです。ですが、周りの人たちの親切でなんとか社会に復帰し、今の商売を軌道に乗せることができました。あのときの感謝を思い出すと、当時のわたしと同じ苦しみを味わっている人たちを放っておくことができないのです。」その答えを聞いて、私はまた深く納得しました。罪の中で苦しみ抜き、悔い改めてゆるされた人は、同じように苦しんでいる人を見たとき憐れまずにいられなくなるのです。それが、真実の悔い改めの結ぶ第二の果実だと言っていいでしょう。
 もしわたしたちが教会で神にゆるしを願いながら、家に帰るとまたすぐ同じ罪を繰り返すなら、わたしたちはまだ十分に悔い改めていないのです。その罪がどれだけ自分を傷つけ、周りの人々を傷つけたかを直視し、その罪を味わい抜いて心の底から悔い改めたのなら、二度と同じ間違いを繰り返したいとは思わないでしょう。もし同じ罪を繰り返してしまうなら、自分が犯した罪の恐ろしさを十分に直視する必要があると思います。もしわたしたちが、自分が苦しんだのと同じ罪の苦しみを味わっている人たちを無視するなら、わたしたちはまだ十分に悔い改めていないのです。その罪の苦しさを知り、悔い改めてゆるされたことに心から感謝したならば、同じ苦しみを味わっている人を憐れまずにいられなくなるからです。もし苦しんでいる人に心を閉ざしてしまうなら、自分がどれだけ罪深かったか、そしてどれだけたくさんゆるされたかをよく味わう必要があると思います。
 口先だけの悔い改めには、何の意味もありません。真実の悔い改めは、必ずその実を結ぶものなのです。真剣に悔い改め、悔い改めにふさわしい実をたくさん結んでゆきましょう。
※写真…京都、嵐山にて。ナンテンの実。