バイブル・エッセイ(375)救い主が来られた証


救い主が来られた証
 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)
 「あなたが救い主なのですか。救い主はもう来たのですか」という問いに対して、イエスは「見聞きしていることを伝えなさい」と答えました。「聖書にわたしこそ救い主だと書いてある。わたし以外に救い主はいない」「完全な神、完全な人間として生まれた、三位一体の第二の位格である」というようなことは一切言いませんでした。ただシンプルに、「見聞きしたことを伝えなさい」と言ったのです。本当に救い主が来るなら、そこに大きな変化が起こるということでしょう。救い主と出会って変えられ、喜びに満たされて生きる人たちが現れたなら、それこそが「救い主が来た」ということの唯一の揺るがぬ証なのです。
 例えば、あるご婦人は嫁姑の関係で悩み、苦しんでいて、あるとき教会にやって来ました。どうしていいのかまったく分からない闇の中にいた彼女でしたが、聖堂で静かに神様と向かい合っているうちに、姑の心にも大きな孤独感があること、自分にも自分のやることはすべて正しいと思う傲慢があることに気づいたそうです。すると、彼女の心の中に姑へのいたわり、自分自身への反省が生まれてきました。「闇の中に光が射し、何をしていいかが分かるようになった」と彼女は言っていました。これこそ、まさに「目を開かれた」ということでしょう。わたしたちにも、きっと似たような体験があるはずです。「救い主が来た。イエスこそ救い主だ」ということを証したいなら、大きな喜びのうちに、その体験を語るのが一番だと思います。
 また例えば、ある男性は会社で大きな失敗をしてしまい、打ちのめされた気持ちで教会にやって来ました。「もうだめだ、立ちあがることができない」と思っていた彼でしたが、信者さんたちから明るい笑顔で迎え入れられたとき、「まだだめじゃない。もう一度やり直せるかもしれない」と思ったそうです。これはまさに、「歩けなかった人が立ち上がった」ということでしょう。わたしたち自身にそのような体験があるならば、あるいはそのような体験をした人を見たならば、大きな喜びのうちにその体験を語ればいいと思います。
 また例えば、あるホームレスの男性は、物乞いをしようと思って教会にやって来ました。玄関先で対応されても仕方がないところですが、その教会の神父は彼を応接室に通し、お茶を出してもてなしました。彼をまったく差別せず、対等な人間として話す司祭の言葉を聞いているうちに、彼の心に「自分は恥ずべきことをしている」という思いが生まれてきたそうです。そして、自分も立派な大人なんだから、自分の力でもう一度働いてみようと考え直したのです。これは、まさに「貧しい人が福音を告げ知らされた」ということでしょう。この男性は、教会を訪れたことで人間としての尊厳を取り戻したのです。もし「救い主が来た。イエスこそ救い主だ」ということを証したいなら、大きな喜びに満たされて、このような出来事を語ればいいのです。
 救い主と出会ってすっかり変えられたわたしたちの生き方、喜びに満ちてその体験を語るわたしたちの姿こそ、「救い主が来た、イエスこそ救い主だ」ということの何よりの証拠です。どれほどたくさんの理屈を並べ、聖書を駆使して論理的に説得したとしても、それがないなら何の意味もありません。生き方によって、喜びによって神の国の福音を宣べ伝えられるよう、心から祈りたいと思います。
※写真…カトリック六甲教会の庭に咲いたサザンカ