バイブル・エッセイ(381)「悔い改めよ。天の国は近づいた」


「悔い改めよ。天の国は近づいた」
 エスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ4:12-17)  
 福音宣教におけるイエスの第一声、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけは、まさに全福音の要約と言っていいでしょう。「どんな罪人でも、悔い改めさえすれば必ず天の国に入れる」とイエスは言っているのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけは、罪の闇の中に閉じこもっている人たちを闇の中から連れ出し、天国に迎え入れるための呼びかけなのです。
 わたしたちが閉じこもる闇、それはたとえば絶望の闇です。自分の思った通りの人生を歩めなかったことに絶望し、「どうせわたしなんか」と思い込んで自分を責め、世を恨む。そんな闇の中にいる人でも、悔い改めさえすればすぐに救われます。自分の思った通りの人生を生きようとするのをやめ、神が与えて下さった人生を感謝して生きる決意をするなら、その瞬間に絶望の闇から救い出されるのです。
 わたしたちが閉じこもる闇、それはたとえば不安や恐れの闇です。「これからの人生が自分の思った通りにならなかったらどうしよう。家族が自分の言う通りにしてくれなかったら、友達に裏切られたらどうしよう」と不安に思い、惨めな状況に陥ることを恐れる。そんな闇の中にいる人も、悔い改めさえすれば救われます。自分や家族、友人の人生をコントロールしようとするのを止め、神の手に委ねればいいのです。たとえ自分の思った通りにならなくても、神が準備して下さった道こそわたしたちにとって一番いい道だと信じられれば、そのときわたしたちは不安や恐れの闇から救い出されるでしょう。
 わたしたちが閉じこもる闇、それはたとえば怒りや憎しみの闇です。互いを、自分の存在を脅かす恐るべきライバルと見なし、足をひっぱりあったり、罵り合ったりするとき、わたしたちは苦しみの闇の中にいます。まったくおかしなことですが、わたしたち人間には、自分自身のことや愛する人のことよりも自分が嫌いな人のことばかり考え、その人を滅ぼすために膨大な時間を費やすという性質があります。「あの人はここがこうでああだからダメなんだ。あんなこともした、こんなことも言った。」心の中であれこれと批評したり、友達をつかまえて悪口を言ったり、そんなことに一体どれだけ膨大な時間が費やされていることでしょう。ですが、そんな闇の中にいる人も、悔い改めれば救われます。自分の周りにいる人たちが、競い、倒すべきライバルではなく、助け合うべき兄弟姉妹だということを思い出せばいいのです。誰もが愛された神の子であり、神は誰一人として滅びることを望んでいません。そのことを思い出せばいいのです。そうすれば、わたしたちは怒りや憎しみの闇から救い出されるでしょう。
 「悔い改めよ、天の国は近づいた」というイエスの言葉は、いまも全地に鳴り響いています。今からでも遅くはありません。悔い改めさえすれば、絶望の闇、不安や恐れの闇、怒りや憎しみの闇から抜け出し、光の中に入ることができるのです。この福音を胸にしっかりと刻み、闇から抜け出すための勇気と力を神に願いたいと思います。
※写真…大阪城公園梅林にて。今年一番に咲いた白梅。