バイブル・エッセイ(384)天の国に入るために


天の国に入るために
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられ ている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」(マタイ5)
「あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とイエスは言います。律法学者やファリサイ人のように、神の御旨より自分の思いを優先するなら、わたしたちの心が安らぐことはない、天国の喜びを味わうことはでなきいとうことでしょう。天国の喜びに入りたいなら、自分の思いではなく、神の御旨を生きる必要があるのです。
 たとえば、ゆるさなければいけないと分かっているのに、それでも「この人だけは絶対にゆるせない」と意地を張るなら、そのときわたしたちは律法学者、ファリサイ人と同じです。神の思いではなく自分の思いを優先し、自らの正義に従って神の正義をないがしろにしているからです。それでは、決して天国に入ることはできないでしょう。意地を張り続けるなら、怒りの炎はますます激しく燃え上がり、ついにはわたしたちを焼き尽くしてしまうに違いありません。それは、まるで生きながら地獄の炎に焼かれるようなものです。
 隣人の妻に情欲を燃やすことのように、してはいけないことだと分かっているのに、それでも「この人のそばにいたい。この人を手放すことは絶対にできない」と意地を張るなら、わたしたちは決して天国に入ることができません。かえって良心の呵責にさいなまれ、生きながら地獄の苦しみを味わうことになるでしょう。
 「誓ってはいけない」という掟は、神の思いがどうであろうと、自分が誓ったことを実現しようと意地をはってはいけないということでしょう。「神の御旨がどうであろうと、誓った以上、何が何でも実現してやる」と意地を張るなら、わたしたちは決して天国に入ることができません。神様が準備して下さった天国への道をそれて、深い迷いの道に入っていくことになるでしょう。
 自分の思いではなく神の御旨を生きるために大切なのは、天国に入りたいのか地獄に落ちたいのか、自分の本当の望みがどちらなのかはっきり選ぶことだと思います。はっきり選んで、その選びにふさわしい行動をとるのです。天国に入りたいけれども、「この人だけは絶対にゆるせない」、「この人を手放すことはできない」、「何が何でも誓いを実現してやる」というのは、まるで「痩せたいけれど、食べたい」というのと同じくらい矛盾したことです。痩せたいのか食べたいのか、天国に入りたいのか地獄で苦しみたいのか、はっきり選ぶ必要があるのです。
 自分の本当の望みを見極め、きっぱりと選ぶなら、わたしたちはいまこの瞬間からでも天国の喜びに入ることができます。信じていることと行いを一致させ、天国の門を開くことができるよう、そのための力と勇気を神様に願いたいと思います。
※写真…教会の庭に咲いた、サザンカの花。