バイブル・エッセイ(386)「神の国と神の義を」


神の国と神の義を
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 「神の国と神の義を求めなさい」、そうすれば食べるものも着るものも、必要なだけ神様が与えて下さるとイエスは言います。「神の国と神の義を求める」とはどういうことでしょう?「神の国が実現しますように、神の前で正しい者になれますように」と祈ることでしょうか。それは大切なことですが、それだけではないと思います。神の国と神の義を求める」とは、「神の国」を実現するために神様から与えられた使命を、日々、精いっぱいに生きるということでもあるのです。神の御旨のままに日々を精いっぱい生きていれば、神様は必要なものをすべて与えて下さる。先のことを心配する必要はない。イエスは、そう言っているのです。
 先のことを心配するとき、わたしたちはつい悪いことばかり考えてしまいがちです。「宝くじが当たったらどうしよう」「今日のパーティーで素敵な出会いがあったらどうしよう」などと考えて心配するポジティブな人は多くありません。「いま自分が持っているものが奪われたらどうしよう。」「この人に裏切られたらどうしよう。」そんなことばかり考えて、不安になってしまうのです。
 そんなとき、わたしたちは大切なことを見落としています。神様は、奪うよりもはるかにたくさんの恵みを与えて下さるということです。ですが、そのような恵みは、意外なときに、まったく思いがけない形で与えられるので、わたしたちには想像できないのです。失うことばかりを想像し、与えられることを想像できない人間の想像力には、構造上の欠陥があると言ってもいいかもしれません。神様は、奪うよりはるかに多くのものを与えて下さる。わたしたちは、ただそのことを信じて、日々、神様から与えられた使命を全力で生きていればいいのです。
 それでもまだ信じられないという疑い深い人は、これまで自分が生きてきた道のりを振り返ってみたらいいでしょう。神様は、これまでの人生にどれだけたくさんの恵みを与えて下さったことでしょう。どれだけたくさんの奇跡的な恵みで、わたしたちを守って下さったことでしょう。生まれてきたことに始まって、元気に成長できたこと、この家族と出会えたこと、この仕事を与えられたこと、すべてが、奇跡と言っていいほど思いがけない神様からの恵みです。今日までわたしたちにたくさんの恵みを与えて下さった神様は、明日からもたくさんの恵みを与えて下さるに違いありません。想像できないだけで、それは間違いないことです。明日のことを心配する必要ありません。わたしたちはただ、毎日、安心して神様から与えられた使命を全力で生きていてればいいのです。
 「その日の労苦は、その日だけで十分」というのは確かなことです。わたしたちがすべきことは、毎日、十分にあるからです。先のことを心配する時間があれば、むしろいま自分は神様から与えられた使命を十分に果たせているかを心配しましょう。神から与えられた使命を全力で生きる。わたしたちの毎日は、わたしたちの人生は、ただそれだけでいいのです。
※写真…神戸市総合運動公園の菜の花畑。