バイブル・エッセイ(392)『信じる者は、死んでも生きる』


信じる者は、死んでも生きる
 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう に。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知 しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、 命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11:20-27)
 「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない。」イエスはそう言ってラザロを蘇らせました。しかし、肉体が蘇ったとしても、やがて死ぬことには変わりがありません。ラザロが蘇ったところで、「決して死ぬことがない」とは言えないのです。なのにイエスは、なぜあえてラザロを蘇らせたのでしょう。「生きいてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない」と言ったのでしょう。
 そもそも「生きる」とはどういうことなのでしょう。創世記の中には、土から創られた人間は、「命の息」を吹き込まれて生きるものになったと書かれています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2)というのです。エゼキエル書でも、「わたしがお前たちの中に息を吹き込むと、お前たちは生きる」と書かれています。わたしたちは、神の霊を吸い込み、神の霊に満たされたときにだけ生きるものとなるのです。神の霊を吸い込まないならば、ただの土くれに戻り、死んでしまうのです。
 神は愛そのものなので、神の霊を愛と言い換えてもいいでしょう。神に心を向け、神の愛を深く吸い込んで心を満たされるとき、わたしたちは生きるのです。喜びに満たされて、力強く歩み続けることができるのです。神の愛に心を閉ざすなら、たとえ体は生きていても命がありません。悲しみに打ちひしがれ、絶望の闇に沈むことになるのです。
 イエスがやってきたとき、この意味で命を失っていた、死んでいたのはラザロだけではありませんでした。マルタ、マリアの姉妹を始め、村中の人たちが悲しみの中に沈み、命を失っていたのです。絶望の闇の中に葬られていたと言ってもいいでしょう。ラザロに命を与えることによって、イエスはこれらすべての人たちに命を与えました。神の愛を確かに証し、彼らの体に神の愛を吹き込むことで、彼らを蘇らせたのです。イエスがラザロを蘇らせたのは、人々に神の愛を確信させるためだったのです。
 イエスを信じ、神の愛に満たされている限り、わたしたちは「決して死ぬことがない」と言っていいでしょう。死んでしまうのは、神の愛か信じられなくなるからなのです。肉親の死や事故、争いごとなどの苦しみの中で、「こんなわたしを、神が愛しているはずがない。わたしなんか、どうでもいい」と思い込んでしまうとき、神の愛に心を閉ざすとき、わたしたちは神の霊、神の愛を失って死んでしまうのです。
 大切なのは、神の愛を信じ、神に祈り求め続けることだと思います。「神に願うことはなんでもかなえられる」というのは間違いがありません。それがわたしたちのために必要なものなら必ず与えられるし、そうでないなら「与えられない」ということを与えられるのです。いずれにしても、一番必要なもの、魂の救いが確実に与えられます。どんな困難の中にあっても願い続け、神の愛とつながりつづけること、それ自体が救いだからです。どんな困難に直面しても、あきらめず祈り続けましょう。神の愛を信じ、神の愛とつながり続け、生き続けましょう。「生きいてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない」とは、つまりそういうことなのです。
※写真…教会の庭の桜吹雪。