バイブル・エッセイ(393)『聖なる沈黙』


『聖なる沈黙』
 総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。(マタイ27)
「主なる神が助けて下さるから、わたしはそれを嘲りと思わない。わたしは知っている、わたしが辱められることはない」、イザヤが語るこの言葉が、どれほど侮辱されても何も言い返さないイエスの姿と重なります。人々の魂を救うという大いなる使命のためならば、どんな侮辱にも耐えてみせる。神が必ず自分の正しさを証明して下さる。エスの沈黙は、そのような堅い決意と信仰を表しているように思います。
 もしここでイエスが、兵士や強盗などの言葉に腹を立て、いちいち反論したならどうだったでしょう。人々は「結局のところ、この人も自分のプライドを守るために生きていたんだ」と思って大きく失望し、イエスは救い主としての使命を果たすことができなかったに違いありません。黙ってあらゆる侮辱に耐えることができたのは、イエスが自分のためではなく、人々の魂の救いのために生きていたことのまぎれもない証です。人々を救うためならば、自分などはどれだけ侮辱されてもかまわない。イエスは、そう思ってじっと沈黙を守ったのです。
 わたしたちも、このような覚悟を持ちたいと思います。たとえば、子どもから批判されたとき。どんなに腹が立ったとしても、子どもを育てるという大いなる使命を思い起こせば、怒りを心から追い払うことができるでしょう。腹を立て、自分のプライドを守るためにむきになって反論することは、果たして子どもの魂の救いのために役に立つのかと考えればいいのです。自分のプライドを守るために行動するのをやめ、子どもの魂を救うために語るべき言葉を語り、行動をとる。その使命を忘れないようにしたいと思います。
 あるいは、会社で上司から罵倒されたとき。どんなに腹が立ったとしても、自分は人々の魂の救いのために派遣されたキリストの弟子だということを思い出せば、怒りを心に入れずにすませられるでしょう。むきになって反論したり、陰でその上司の悪口を言ったりすることは、果たして上司や同僚たちの魂の救いのために役に立つのかと考えたらいいのです。自分のプライドを守るためではなく、弟子としての使命、人々の魂の救いのために一番ふさわしい言葉を語り、行動をとる。その使命を忘れないようにしたいと思います。
 もちろん、どんな場合でもただ我慢すればいいという訳ではありません。侮辱に対して反論が必要なこともあるでしょう。ですが、どんな場合であっても、わたしたちから出る言葉は、自分のプライドを守るためではなく、神様から与えられた使命を実現するための言葉でなければなりません。和解やゆるし、愛の交わりを実現する言葉だけを、わたしたちは語るべきなのです。
 神様から与えられた使命を守るために黙っている限り、わたしたちは辱められることがありません。神様から与えられた使命を忘れ、自分のプライドを守るために反論すれば、逆に自分で自分を辱めることになります。十字架上のキリストの模範にならって、神の御旨を実現する「聖なる沈黙」を守ることができるよう祈りましょう。
※写真…街路樹の八重桜。