バイブル・エッセイ(398)『羊飼いの声を聞き分ける』


『羊飼いの声を聞き分ける』
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。(ヨハネ10:1-6)
 羊飼いであるイエスの声を聞き分け、その声のあとにどこまでもついていく。それこそ、わたしたちキリスト教徒の人生だと言っていいでしょう。すべては、祈りの中でイエスの声を聞に耳を傾け、その声を聞き分けることから始まります。祈りとは、イエスの声に耳を傾け、その声を聞き分けることだと言ってもいいでしょう。
 では、どうしたらイエスの声に耳を傾けることができるのでしょう。わたしたちは聖堂に来て座っていても、祈っていないことがあります。黙って座っていても、イエスの声には耳を傾けず、自分自身の声に耳を傾けていることがあるのです。「あれがしたい、これがほしい。そのためにはどうすればいいだろうか」とか、「どちらが損で、どちらが得か」というようなことを考え、自問自答しているなら、それは目の前でわたしたちに呼びかけているイエスを無視して、ぶつぶつ独り言を言っているようなものです。それは祈りではなく、ただの考えごとにすぎません。
 あるいは、せっかく聖堂に来たのに、イエスと向かい合わず友だちと向かい合い、「ああでもない、こうでもない」と長話をしてしまうこともあるでしょう。それは、目の前でわたしたちに呼びかけているイエスを無視して、自分たちだけで話しているようなものです。おしゃべりに夢中になってイエスが近づいてきたのに気付かなかったエマオに向かう弟子たちのように、自分たちだけで話をしていてはイエスの声を聞くことができません。
 大切なのは、自分の思いや利害損得をすっかり脇において、目の前におられるイエスの声に耳を傾けることです。堂々巡りのおしゃべりをやめて、わたしたちを緑の牧場に導くイエスの声に耳を傾けることです。祈りとは、自分自身や仲間の声ではなく、イエスの声に耳を傾けるということなのです。
 心を静かにしてイエスの声に耳を傾けていると、心の中からいろいろな声が聞こえてきます。今度は、そのどれがイエスの声なのかを聞き分ける必要があるでしょう。聞き分けるための一つの基準は、その声が自分を乗り越えてより大いなるものに向かわせる声かどうかということ。羊の囲いから出て、緑の牧場へと導くものかどうかということです。「囲いから出てついて来なさい」というのがイエスの声で、「囲いの中にいなさい」というのはイエスの声ではないと思ったらいいでしょう。
 羊の囲いの中、自分が住み慣れた守られた世界にとどまるのは魅力的なことです。外の世界は何が起こるか分からないし、もしかしたら敵に襲われるかもしれないからです。しかし、自分の壁の中に閉じこもっていては、決して緑の牧場に行くことができないのも事実です。門から出て、イエスの後に従ってついてゆかなければ、決して本当の幸せに辿りつくことはできないのです。自分を守る囲い、エゴの壁の中から出て、和解や一致、奉仕、愛へと向かわせる声こそがイエスの声なのです。
 独り言やおしゃべりをやめてイエスの声に耳を傾け、わたしたちを緑の牧場に導くイエスの声を聞き分ける力、そして聞き分けた声にしたがってどこまでもついてゆく勇気を、神様に願いましょう。