バイブル・エッセイ(401)『弁護者である聖霊』


「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:15-21)
「父は弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいて下さるようにしてくださる」とイエスは言います。キリストの霊である聖霊がやって来ていつもわたしたちと一緒にとどまり、わたしたちのために弁護して下さるというのです。何か質問されたり、批判されたりしたとき、穏やかに説明し、相手を納得させるための言葉を与えて下さるということでしょう。
 キリスト教について質問されたとき、痛い所を突かれるとわたしたちはついむきになって反論しようとしてしまいます。例えば、「十字軍についてどう思いますか?宗教のせいで戦争になるんですよね」とか「聖母マリアを拝むのは、偶像崇拝なんじゃないですか?」などと聞かれると、鋭い質問であるだけに腹が立って、つい「そんなの昔の話です」とか「拝んでいるわけじゃありません」などと声を荒げてしまうのです。
 そんなとき、わたしたちの中には聖霊がいないと思います。むきになって反論するとき、わたしたちはただ自分のプライドを守ろうとしているだけだからです。自分が信じている宗教についての批判を自分自身への批判として受け止めて腹を立て、自分を守ろうとしてむきになっているのです。それでは、聖霊は働きません。
 鋭い質問をされたときには、感情的になってすぐに答えず、何を語るべきか弁護者である真理の霊に尋ねるのが一番だと思います。祈りの中で、「わたしはいま、ついカッとしてしまいました。心を静めて下さい」「相手の魂の救いのために、一番いい答えを教えて下さい」と聖霊に尋ねるのです。聖霊はたとえば「教会は、これまでにたくさんの間違いを犯してきましたが、そのたびに悔い改めて今日までやってきました。神様は、どんな間違いもゆるして下さる方なのです」とか「十字架を背負ってイエスのあとについてゆくとき、マリア様はどんなときでもそばにいて、見守って下さるのです」といった、自分自身の実感にかない、また相手の魂の救いのためにも役立つ言葉を教えて下さるに違いありません。
 これは、教会についてだけに限りません。わたしたち自身について質問されたり、批判されたりしたときにもまったく同じことが当てはまります。かっとして腹を立てるとき、私たちが守ろうとしているのは自分自身であって、真理ではありません。そして、自分を守ろうとしているとき、わたしたちの言葉の中に聖霊はいないのです。自分のプライドを捨て、ただ相手の魂の救いを願って口を開くとき、その言葉の中に聖霊が宿ります。
 わたしたちの発する言葉が真理にかなっているかどうかを見極める一番よい基準は、その言葉が愛から生まれたものかどうかだと思います。聖霊にうながされた真理の言葉は、自分を守ることではなく、相手の魂を救うことだけを考えるものなのです。どれほど論理的に正しくても、その言葉が真理であるということにはなりません。愛から生まれた言葉、聖霊の宿った言葉だけが真理なのです。わたしたちは、単に正しいだけの言葉ではなく、真理の言葉を語りたいと思います。弁護者である聖霊に促されて、真理の言葉、愛の言葉を語れるように祈りましょう。
※写真…モミジの新緑。六甲山にて。