バイブル・エッセイ(402)『愛だけが残る』


『愛だけが残る』
 十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ11:16-20)
「世の終わりまで、わたしはいつもあなたがたと共にいる」と約束しながら、イエスは地上を離れ、天に上がってゆきました。一体どういうことでしょう。イエスは弟子たちを見捨てたのでしょうか。そうではないと思います。目に見えるイエスの体は天に上げられても、目に見えないイエスの愛は地上に残ったのです。イエスは、目に見えない愛となって、世の終わりまでいつもわたしたちと共にいて下さるのです。
 誰かが天国に帰っても、その人が残した愛だけは地上に残って生き続ける。そのように感じた体験が、わたし自身にもあります。わたしは、20年ほど前に父を亡くしました。突然の死であり、とても悲しかったのですが、亡くなったことによって父との絆はより深いものになったような気がしています。生きているあいだには意見が合わずに喧嘩することもよくあったはずですが、いまから思い出すと、不思議とそのようなことは忘れてしまっています。思い出すのは、幼いころに肩車をしてもらったときの肩の大きさや、母親に内緒でおいしいお菓子を買ってもらったというような、温かい思い出だけなのです。また、父から色々と注意されたことも、当時は反発しましたが、いまから思えば深い愛がこめられた言葉だったことがよく分かります。確かにわたしが間違っていたと、心の中で素直に認めることができるのです。父が天国に行ったことによってすべての記憶が浄化され、最後に愛だけが残ったと言ってもいいかもしれません。父の残した愛は、いまもわたしの中に確かに生きていて、わたしの心の拠り所になっています。目に見える父の体は地上から取り去られましたが、目に見えない父の愛はいまもわたしの心の中に生きているのです。
 弟子たちの心の中でも、きっと似たようなことが起こったのではないかと思います。「なぜあの弟子ばかりかわいがるんだ」とか、「なぜあんなにきつく叱るんだ」とか、そのようなわだかまりが弟子たちの心の中にもしあったとしても、イエスの昇天によってそれらの思いはすべて清められたはずです。イエスが生きていたあいだには分からなかった言葉の意味、その言葉にこめられたイエスの深い愛も、聖霊によって明らかにされたことでしょう。そして、ただ愛された記憶だけが弟子たちの中に残ったのです。エスの愛はいつまでも弟子たちの中に生き続け、聖霊の風が吹くたびごとに、弟子たちの心を燃え上がらせたことでしょう。目に見えるイエスの体は天国に上げられても、目に見えないイエスの愛は地上に残ったのです。復活と昇天というのは、そのようなことではないかと思います。
 イエスから愛された記憶は、わたしたちの心にいつまでも生き続けます。どんなことがあっても、洗礼や堅信、ゆるしの秘跡などを通して、日々の深い祈りを通して、人々との出会いを通して与えられたイエスの愛は、決して消えることがないのです。どんなに苦しいときでも、イエスは愛となってわたしたちと共にいて下さいます。わたしたち自身もやがてこの世を去っていきますが、わたしたちが残した愛はいつまでも家族や子ども、友人たちの中に生き続けるということも、同時に思い出したいと思います。わたしたちは、愛となっていつまでもその人たちと共に生き続けるのです。この復活と昇天の神秘をしっかりと胸に刻み、イエスの愛に包まれて、家族や友人、教会の仲間たちを愛することができるように祈りましょう。
※写真…初夏の日光、戦場ヶ原にて。