バイブル・エッセイ(404)『裁きは分裂を、ゆるしは一致を』


『裁きは分裂を、ゆるしは一致を』
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3:16-18)
 三位一体の主日である今日、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とイエスはわたしたちに語りかけます。裁いて切り捨てるためではなく、ゆるして一つに結ぶためにイエスは来たということです。大いなる神の愛の中であらゆる罪がゆるされ、違いが乗り越えられ、すべてが一つに結ばれる。それこそ、三位一体の神秘だと言っていいでしょう。
 最近、「中二病」という言葉をよく聞きます。背伸びをして大きなことを言い、人を裁く思春期特有の態度を揶揄したものです。確かに、わたしたちは若いとき、他人を厳しく裁き、切り捨ててゆく態度をとりがちだと思います。「うちの親は間違っている」「あの先生は堕落している」「大人は汚れている」などと決めつけ、相手とのあいだに壁を作っていくのです。同時に、その厳しい裁きが自分自身にも向けられ、思い通りになれない自分との間でさまざまな葛藤が生まれるのもこの時期の特徴です。そこにあるのは、他者や自分自身との分裂、そして限りない孤独の苦しみだけです。裁いて切り捨ててゆく態度は、人生をやせ衰えさせ、荒れ果てたものにしていくのです。
 やがて、歳をとるにつれて、わたしたちは自分の弱さも自分の一部として受け入れることができるようになっていきます。自分が親や先生、大人になることで、高い理想で相手を裁くことの愚かさに気づくのです。同時に、自分で自分を裁いていくことの愚かさにも気づき、自分をありのままに受け入れられるようになっていきます。厳しい人生の現実に直面する中で、わたしたちは、「お互いに弱い人間同士。励まし合いながら、それぞれが精いっぱいに、自分の人生を生きてゆければいい」と思えるようになっていくのです。ゆるして受け入れる態度は、人々とのつながりの輪をどんどん大きく広げ、人生を豊かなものにしていきます。そのような生き方こそ、あらゆる違いの壁を乗り越え、すべてを一つに結んでゆく三位一体の神秘を映し出していると言っていいでしょう。
 先日、大阪で行われた大阪教会管区研修会は、国籍や文化を越えた一致がテーマでした。ある国から来た人たちは、時間を守れなかったり、規則にルーズだったりすることがあります。しかしそのような人たちは同時に、貧しさの中で自分自身の弱さを知り、生活のあらゆる場面で神により頼む信仰を生きている人たちでもあります。逆に日本人は、時間を守り、規則に忠実ですが、信仰が頭だけになり、生活と信仰が分離する傾向があるようです。外国から来た信徒たちは、日本人の信仰が、教会と日常生活ですっぱり分断されていることに驚くといいます。
 そんなわたしたちが、「時間が守れない」、「信仰と生活が矛盾している」と互いに裁きあえば分裂が生まれるだけでしょう。しかし、互いの弱さと強さを認め合い、受け入れあうなら、豊かで力強い教会が生まれるに違いありません。あらゆる違いの壁を乗り越えて、すべての人が一つに結ばれた教会こそ、三位一体の神秘を目に見える形で証する教会だと言っていいでしょう。
 そもそも、神はなぜ三位の神でなければならないのでしょうか。なぜ、唯一の神に三つの位格が必要なのでしょうか。それは、違いが喜びと力を生むからだと思います。違ったものが、神の愛の中で自分自身を乗り越え、相手を受け入れて一つになるとき、そこに大きな喜びと力が生まれるのです。始めから一つで、自分の中に閉じこもっているなら、そこには何の動きも生まれません。ただ、どんよりと停滞してゆくだけです。違いがあるからこそ、わたしたちには喜びと力があるのです。
 違った者同士がこうして一つの場所に集められたのは、互いをゆるして受け入れ合うため、違いを乗り越えて愛し合うためだということを忘れないようにしたいと思います。違いの恵みに感謝し、教会を、あらゆる違いを乗り越えてすべてを一つに結びつける三位一体の神秘の証にしてゆきましょう。