祈りの小箱(157)『自分自身へのいらだちと怒り』


『自分自身へのいらだちと怒り』
 キリスト教の洗礼を受けて間もない20代前半のころ、教会のぜいたくさに腹を立てていた時期がありました。教会の大きな建物や、司祭の生活の豊かさなどが、気になって仕方がなかったのです。実際に、神父さんたちにそのことで苦情を言ったこともありました。あとからそんな自分自身を振り返ってみて気づいたのは、自分自身もキリストにとことん従う覚悟で洗礼を受けておきながら、キリストの言う清貧の理想をまったく実践できていなかったということでした。あの頃のわたしは、理想通りに生きられない自分自身へのいらだちや怒りを、神父さんたちにぶつけていたのです。
 わたしたちは、ときどきこのような間違いを犯してしまうことがあります。本来は、自分に向けるべきいらだちや怒りを、理不尽にも関係のない相手にぶつけてしまうことがあるのです。他の人はあまり気にしていない相手のある部分が、自分にはどうしても気になって仕方がないなら、それは自分自身の中にそのことについての葛藤があるからかもしれないと疑ってみる必要があると思います。聖書の中に、「まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、人の目の塵を取り除くことができるだろう」という言葉がありますが、相手の目の中の塵が気になるのは、自分の目の中にもっと大きな梁があるからかもしれないのです。
 思い通りに生きられない自分自身へのいらだちや怒りを、人にぶつけても仕方がありません。むしろ、自分自身さえ自分の思った通りにはできない自分の無力さを素直に認めて、神に助けを願うべきでしょう。相手の中に自分と同じ弱さを見つけたならば、その相手のためにも祈ったらいいでしょう。いらだちや怒りを感じるたびごとに、その根にあるものをしっかり見極めるようにしたいと思います。
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