バイブル・エッセイ(408)『よい土に落ちる種』


『よい土に落ちる種』
 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:1-3)
 種まきのたとえ話が読まれました。ここで種を蒔く人は、イエス・キリストであり、イエス・キリストから種を託されたわたしたちと考えていいでしょう。種が落ちたいろいろな土地は、いろいろなタイプの人と考えることもできます。それぞれの土地を、心がごつごつした石だらけの人や、心が荒んだ人、欲望に縛られた人などと考え、よい土地に落ちるまで根気よくまき続けましょうという教訓を導くのです。ですが、わたしはむしろ、一人ひとりの心の中にいろいろな土地があると考えたいと思います。
 心の表面には、石がごろごろしていることもあるでしょう。宗教に対する先入観や偏見、あるいは宗教を信じているという人々によって深く失望させられた体験などが、種の成長を阻むのです。また、心の表面に、「あれもしたい」「これも欲しい」という思いや、「自分の思った通りに周りの人を動かしたい」というような思いが枝を伸ばしているときもあります。そんなとき、種は誘惑という鳥に持っていかれてしまったり、欲望の茨に押しつぶされてしまったりします。しかし、どんな人の心にも、奥深い所に必ずよい土があります。やわらかくて、温もりに満ちた土、恵みの雨が降り注ぎ、御言葉の種がまかれるのを待っている土があるのです。
 では、どうしたらその土に種を蒔くことができるのでしょう。どんな種が、その土に落ちるのでしょう。「殉教者の血は教会の種」というテルトゥリアヌスの言葉に手がかりがあるように思います。殉教者の血によって証された信仰は、心の表面の石を取り除き、頑なな心を打ち砕き、欲望の枝をへし折って、心の深みに落ちる力を持っているのです。たとえば、乙女峠の殉教者たち。「ぼくは神様の子どもだ」と誇りを持って語り、あらゆる苦しみに耐えた祐次郎や、「天国にはもっとおいしいお菓子がある」と言って役人の誘惑を拒んだもりちゃんの信仰は、確実にわたしたちの心の一番奥深くにまで届きます。自分のことを考えず、ただ神のため、人々のために捧げられた人生には、人の心の一番奥深くにまで届く力があるのです。
 御言葉の種を蒔くというのは、ただ聖書の言葉を大声で読み上げたり、印刷したりして人々に配るということではありません。私たちの生き方そのものが種であり、そのような生きざまを人々に見せることこそが種まきなのだということを忘れないようにしたいと思います。本当に御言葉を宿した種を蒔いたならば、その種は必ず芽を出し、多くの実を結びます。どんな種も、決して無駄になることはないのです。相手の心の奥深くに必ずある、やわらかで温かな土にまで届く種を蒔くことができるように、心から神様に願いましょう。