バイブル・エッセイ(409)なぜ毒麦が生えるのか?


なぜ毒麦が生えるのか?
 エスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ13:24-30)
 「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」としもべたちが主人に尋ねています。これは、わたしも近頃よく感じる疑問です。幼稚園の子どもたちを見ていると、子どもたちの心に蒔かれているのは、正直さ、明るさ、優しさといったよい種だけなのです。どの子どもの目もきらきらと輝いて屈託がなく、大人の心にたくさん混じっている、妬みや僻み、ずるさ、傲慢などの毒麦は、ほとんど見当たりません。毒麦は、いったいどこから入りこんできたのでしょう。
 今日のたとえ話で言われているように、神様は、子どもたちの心によい種だけを蒔きます。正直さや明るさ、優しさといったよい性質、将来、画家や音楽家、スポーツ選手などに育っていくかもしれない素質など、こどもたちの心の中には、たくさんよい種が蒔かれているのです。大切なのは、それをどう育てていくかということだと思います。おそらく、子どもたちの心のよい種が育っていくために一番必要なのは、周りの大人たちが注ぐ愛情でしょう。お父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、幼稚園の先生たちから愛情が温かな陽ざしのように降り注いでいる限り、たくさんの優しいまなざしが子どもたちを見守っている限り、子どもたちの心のよい種は、自分の力でどんどん大きく成長していくのです。
 毒麦が入りこむのは、何らかの理由で愛の陽ざしが遮られたときではないかと思います。お父さんやお母さんが、仕事ばかりして自分のことを見てくれない。先生が、ぼくのことを嫌っている。家でも幼稚園でも、誰も、わたしのことを大切にしてくれない。そう思ったとき、子どもたちの心に毒麦が入りこむのです。「ぼくは誰からも大切にしてもらえない」、という疎外感の種は、愛情の届かない暗がりで、嫉妬や不満、怒り、憎しみ、苛立ちなどに成長していきます。「敵」は、わたしたちが子どもをよく見ていないときにやってきて、毒麦の種を蒔いていくのです。
 もちろん、愛の陽ざしは、もともと神様からやってくるものです。人間の心によい種を蒔いて下さった神様は、わたしたちの心に愛の恵みを豊かに注いでくださるに違いないのです。ですが、神様の愛は目に見えないので、子どもたちはなかなかそれを感じ取ることができません。目に見えない神様の愛は、はっきりと目に見える形で、わたしたちを通して表現される必要があるのです。目に見えない神様の愛は、わたしたちの笑顔やあたたかいまなざし、やさしい仕草、思いやりのある言葉などを通して子どもたちの心に届けられるのです。
 子どもたちの心に神様の愛を届けること、愛情をたっぷりと注いで毒麦が育つ暗がりを作らないこと。それが、わたしたち大人の役割と言っていいでしょう。愛の温もりの中でよい種がどんどん大きく育っていくなら、毒麦が入りこむ余地などどこにもないのです。無理に毒麦を抜く必要はありません。世の終わりまで待つ必要もありません。よい種が大きく育てば、毒麦は自然に枯れてしまうでしょう。
 祈りの中で、まずわたしたち自身の心を神様の愛で満たしていただきたいと思います。神様の愛に満たされ、子どもたちの心、わたしたちの周りにいるすべての人々の心の暗がりを照らす神様の愛の光となれますように。