バイブル・エッセイ(417)『考え直す』


『考え直す』
「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21:28-32)
 父の言いつけに対して、初めは行かないと言ったけれども、後で考え直して行くことにした兄。初めは行くと言ったのに、後で考え直して行かなかった弟。今日の福音のテーマは、「考え直す」ということだと言っていいでしょう。なぜ、わたしたちは後で考え直すのでしょう。どうしたら、考え直して「神の国」に入ることができるのでしょう。
 弟には、どんな心の動きが起こったのでしょう。おそらく、初めに「承知しました」と言ったのは、「お父さんの言いつけだから仕方がない。行こう」ということだろうと思います。ですがやがて、「でもやっぱり面倒だなぁ」という思いが湧き上がってきます。そこで、「何かさぼるいい理由がないかな。そうだ体調が悪かったことにして休もう」、というようなことではないかと思います。
 このようなことは、よくあります。例えば、教会での奉仕活動。初めは、神様から自分に与えられた使命なのだから当然やろう、よろこんでやろうと思っています。ところが、やっているうちにだんだん面倒になってくることがあります。「家に帰ればやらなければいけないことが他にたくさんある」「こんなことに時間を使うのはもったいない」と思うようになっていくのです。はじめは神様中心だった考えが、しだいに自分中心になっていきます。神様から与えられた使命ではなく、自分がしたいこと、自分の得になることをしたい。考えが、そのように変わっていくのです。
 兄の心に起こったのはどういうことでしょう。おそらく、初めに「いやです」と言ったのは、「他にやることがたくさんあるから、行きたくない」ということでしょう。ですがやがて、「まてよ、ぼくが行かなかったら、お父さん一人でブドウの収穫ができるんだろうか」「お父さん、最近ずいぶん老けてきたしなぁ」という思いが湧き上がってきます。「ぼくが行かなければ、お父さんがかわいそうだ。ここはひとつ、出かけて行ってお父さんを喜ばせてやろう。」きっと、そんな思いで出かけて行ったのだと思います。
 このようなことも、よくあります。最初は、「家にやらなければいけないことがたくさんある」「こんなことをしても時間の無駄だ」という思いで断ります。ですがしだいに、「これがキリスト教徒として、神の愛を生きるものとしてふさわしい行動だろうか」という思いが湧き上がってくるのです。そして、「よし、ここはわたしが引き受けて、みんなを喜ばせてやろう。神様を喜ばせよう」と思うようになってゆきます。はじめは自分中心だった考えが、しだいに神様中心になっていくのです。「考え直す」ということは、考えの中心を変えるということだと言っていいでしょう。わたしたちが「考え直す」のは、考えの中心になる一番大切なことが、自分から神様へ、あるいは神様から自分へと移るからなのです。
 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とパウロは言います。「めんどうだ。こんなことをしても時間の無駄だ。」そんな考えが湧き上がって来たなら、それは自分のことしか考えられなくなっているしるしかもしれません。いつも考えの中心を神様に置けるように、考え直して神様を喜ばせることができるように、心から祈りたいと思います。
★先週のバイブル・エッセイ『愛の尺度』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。

※写真…カトリック宇部教会の十字架と夕焼雲。