バイブル・エッセイ(418)『僕を迎え入れる』


『僕を迎え入れる』
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(マタイ21:33-41)
 ブドウ畑の収穫を受け取るために主人が遣わした僕を、この農夫たちは袋叩きにし、挙句の果てに殺してしまいました。とてもひどい農夫たちの話しです。「わたしは絶対、そんなひどいことはしない」と思う人もいるでしょう。ですが、本当にそうでしょうか。よく考えると、わたしたちも日常的にこのようなことをしている気がします。主人を神様、主人がよく手入れして貸したブドウ園をわたしたちの人生、収穫をわたしたちの人生の実りと考えてみたらどうでしょうか。
 神様は、わたしたちのもとに僕を遣わし、収穫を受け取ろうとします。わたしたちが蓄えた財産や身に着けた知識、経験、あるいはわたしたちの心を満たしている愛や幸せ、安らぎなどの正当な取り分を受け取るためです。その僕が、貧しい人々、助けを必要としている人々に他なりません。経済的な困窮や病気、人間関係のトラブルなどで苦しみ、助けを必要としている人たちがわたしたちのもとにやって来たなら、その人たちこそ、神様が送り出した僕なのです。わたしたちは、僕たちにどう対応しているでしょう。
 「ちょっと忙しいので」とか、「また今度ね」、あるいは口先だけで「お祈りしていますよ」などと言って、追い返してしまうことはないでしょうか。「あの人はあつかましい。わたしたちの邪魔ばかりする」などとみんなで悪口を言って袋叩き、石打ちにしたり、何もしないで見殺しにしたりすることはないでしょうか。
 わたし自身は、思い当たることがたくさんあります。先日も、園児が「神父さまー」と言って駆け寄って来てくれたのに「ちょっと急ぐから、またね」と言って通り過ぎてしまったのです。あのとき神様は、子どもを通して愛の温もりという収穫を受け取りに来ていたのかもしれません。信者さんが相談に来たのに「いま忙しいから」とぶっきらぼうな対応をしてしまったこともあります。あのとき神様は、信者さんを通してわたしが学んだ信仰の知識や経験を受け取りに来ていたのかもしれません。
 僕たちが去ったあとで、跡取り息子であるイエスご自身がやって来ます。エスは、僕たちと違って、わたしたちの心の中に直接やって来ます。心の中に現われて、「いまのあなたの態度は、本当によかったのですか」「あなたはあの人を助けるべきではありませんでしたか」「もっと時間を割いてやるべきではありませんでしたか」としつこく付きまとってくるのです。エスを追い払うことはできません。何度追い払っても、イエスは必ずまたやって来ます。この取り立てにどう答えるかが決定的に重要です。もし跡取り息子であるイエスさえも追い払うなら、待っているのは厳しい裁きだけでしょう。もしイエスの取り立てを受け入れて、神様の取り分を差し出すなら、貧しい人や困っている人に手を差し伸べるなら、神様は必ずゆるしてくださるに違いありません。
 わたしたちは、この人生というブドウ園を借りた農夫に過ぎないということを忘れないようにしたいと思います。体も、さまざまな能力も、家庭環境や生まれてきた国も、自分で準備したものではありません。身に着けた知識や経験、手に入れた財産や地位はもちろん、わたしたちの心を満たしている愛や幸せ、安らぎさえも、すべてブドウ園の実りです。収穫の恵みを喜んで差し出すのは、当然のことでしょう。貧しい人々や助けを必要としている人々の取り立て、イエスの取り立てにしっかり耳を傾け、差し出すべきものを差し出したいと思います。
★先週のバイブル・エッセイ『考え直す』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。