バイブル・エッセイ(425)『家庭から始まる愛』


『家庭から始まる愛』
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:31-40)
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスは言います。飢えている人に食べさせる、裸の人に着せる、牢獄の人を見舞う、どれをとっても、ここで挙げられているのはあまり見返りが期待できないケースばかりです。見返りをまったく期待せずに捧げるとき、その捧げものは、相手を通してイエスに届けられるということでしょう。見返りを求めているときは、相手に愛を差し出しているように見えて、実は自分に差し出しているにすぎません。愛は自分に戻ってきてしまうので、決してイエスに届かないのです。
 先日、ローマで「家庭」をテーマとした世界の代表司教会議(シノドス)が行われましたが、飢えていれば食べさせ、裸なら着させ、牢獄に入れば訪ねるということがごく当たり前に行われるのが家庭でしょう。子どもがお腹を空かせていれば、親は自分が食べる分を我慢しても子どもに食べさせます。子どもが服を汚せば、すぐに洗ったばかりのきれいな服を着せてやることでしょう。仮に、子どもが何か罪を犯して牢獄に入ったとしても、訪ねていくのが親というものです。家族のあいだには、ごく自然に、まったく見返りを求めない愛が実現しているのです。
 以前に訪問した刑務所で、こんな話を聞きました。わたしが訪ねた男性のもとには、田舎のお母さんから毎月、手紙が届くそうです。もう高齢なので、なかなか面会に来られないことを詫びながら「わたしは、お前が本当はとてもいい子だって知ってるよ。早く、もとのAちゃんに戻ってね」と書いてくるその手紙を読むたびごとに、彼の心は申し訳なさに張り裂けそうになるとのことでした。子どもがどんなことをしようが、親にはそんなことは関係がありません。その子がその子である限り、信じ続け、愛し続け、待ち続ける。それが、家族の愛というものなのです。
 大切なのは、このお母さんのように、相手を無条件で受け入れるということです。「あなたは、〜ができるから好き」というメッセージは、条件付きの愛のメッセージにすぎません。そのメッセージには、「あなたが〜できる限りは、わたしにとって好ましい。できなくなれば好ましくない」というメッセージが含まれているのです。家族のあいだでは、間違ってもそのようなメッセージが交わされることがないようにしたいと思います。家族のあいだで交わされ愛の本質は、どんな場合でも無条件だということです。家族のあいだにあるのは、「あなたがあなたである限り、わたしにとってかけがえのない、大切な存在だ」という無条件の愛だけなのです。
 まったく見返りを求めない愛を実践することによって、聖書に書かれた理想の愛の形が現実に可能であることを全世界に高らかに宣言することこそ、家庭に与えられた使命です。互いに自分を犠牲にしながら相手を愛し、イエスのもとに愛をどけることこそ、家庭に与えられた使命なのです。家族が互いを「あなたがあなたである限り、わたしにとってかけがえのない、大切な存在だ」と思って受け入れあっている家族からは、無条件の愛があふれ出します。日々、無条件の愛を受け取って生きている人は、誰に対しても無条件の愛を実践するようになるからです。その愛は、教会を満たし、社会を満たしてゆくでしょう。まず、わたしたち自身の家庭から神の愛、無条件の愛を始めましょう。
※写真…モクレンの冬芽。
★先週のバイブル・エッセイ『神様から与えられた役割』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。