バイブル・エッセイ(428)『「それにもかかわらず」の愛』


「それにもかかわらず」の愛
 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。(一テサロニケ5:16-24)
 待降節の第2主日では洗礼者ヨハネによって罪からの悔い改めが説かれ、今日、第三主日では、主の降誕を待ち望む希望の喜びが説かれます。この流れは、ある意味で当然でしょう。自分の罪深さを知れば知るほど、イエスと出会う喜びは大きくなるからです。イエスと出会って、ゆるされる喜び、救われる喜びを心の底から味わうことができるのは、自分の罪深さを知っている人だけなのです。
 自分の罪を省みることがない人が、イエスと出会って喜ぶでしょうか。クリスマスを待ち遠しいと思うでしょうか。自分の罪深さを知らず、自分はゆるされる必要なんかない、立派な人間なのだから愛されて当然だと思っている人は、イエスと出会ってゆるされ、愛されてもあまりうれしくないに違いありません。キリストにゆるされ、愛されることを心の底から喜ぶのは、自分の罪深さを知っている人だけなのです。キリストによる救いの喜びの核心をなすのは、「こんなに罪深いわたしを、それにもかかわらず神様はゆるし、愛してくださった」という喜びなのです。クリスマスにイエスと出会い、ゆるされ、愛されることを心の底から喜べるのは、自分の罪深さを知って「それにもかかわらず」と思える人だけなのです。
 プレゼントをもらうときのことを考えれば、もっとわかりやすいかもしれません。どんなにすばらしいプレゼントをもらったとしても、自分は価値のある人間だからそのくらいのプレゼントをもらえるのは当然だと思う人はそれほどうれしくないはずです。わたしは部長だからとか、いつも周りの人を世話してやっているからとか、そのような思いが、プレゼントをもらう喜びを削いでゆくからです。それに対して、自分なんかがプレゼントをもらえるはずがないと思っている人は、「えっ、本当ですか。ありがとう」と大喜びするはずです。子どもが、どんな小さなプレゼントでも大喜びするのはそのためだと思います。神様からの愛のプレゼントにも、これとまったく同じことが言えるのです。
 自分はさまざまなことが立派にできる人間だから、神様からゆるされて当然、愛されて当然だと思う人間の心の動きを、難しい言葉で「自己義認」と言います。「自己義認」に陥った人は、自分で自分を正しい者、価値ある者にするために、他の人たちと競争し、自分ができることをどんどん増やそうとします。何かができなければ、自分には価値がないと思い込んでいるからです。そして、神から無条件に愛される喜び、「それにもかかわらず」の喜びを一生、知ることなく終わるのです。
 クリスマスを迎えるに当たって、神様は、何もできず、何も持たないわたしたちを「それにもかかわらず」愛して下さる方だということ、「それにもかかわらず」の中にこそ救いの喜びがあるのだということを、心に深く刻みたいと思います。自分は正しい、自分は優れているという思いが少しでも残っていれば、クリスマスの喜び、イエスと出会ってゆるされ、愛される喜びはその分小さくなってしまいます。自分の罪深さを知る者としてイエス・キリストの前に立つことができるように、クリスマスの喜びを完全なものにできるように、心の底からの悔い改めの恵みを願いましょう。
★先週のバイブル・エッセイ『謙遜で、まっすぐな心』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。