祈りの小箱(204)『それにもかかわらずの愛』


『それにもかかわらずの愛』
 「家族から愛されている実感がない」という相談を受けることがあります。確かに家族の側に問題があることも多いのですが、中には自分自身で愛を拒んでしまっているのではないかと思えるケースもあります。そのようなケースに共通するのが、「わたしがこんなにしてあげているのに、その分だけ愛してもらえない」という不平です。
 聖書の中に、「放蕩息子のたとえ」というよく知られた話があります。裕福な父親と、2人の息子の話しです。親から受け取った財産を遊びのために使い果たし、ぼろぼろになって帰って来た弟を、父親は快くゆるして受け入れた。それを見ていた兄は、父親に向かって「わたしはこんなに働いてきたのに、あなたはわたしのために子山羊一匹くれなかったではありませんか」と不平を言った、という話です。この兄弟のうち、父親の愛を本当に知ったのはどちらでしょうか。息子と呼ばれるに値しないほどひどいことをしながら、ゆるしてもらった弟だと考えて間違いないでしょう。弟は、誇るべきものをすべて失うことによって、自分を無条件に愛してくれる父の愛を知ったのです。自分は立派なことをしてきたから、愛されて当然だと思っている兄は、たとえ牛を一頭もらったとしても父の愛を知ることはなかったはずです。そのような考え方をしている人は、父の無条件の愛に気づかないまま、「自分がこれだけやったから愛されたんだ」と思うだけなのです
 「わたしがこんなにしてあげているのに、その分だけ愛してもらえない」と不平を言う人は、このたとえ話の兄に似ています。自分が愛されるに値する立派な人間だという思いがあるから、「愛されない」という不平が出てくるのです。もし自分の弱さや欠点に目を向け、自分は愛されるに値しない人間だということに気づけば、家族が与えてくれるどんなに小さな愛にも感謝することができるはずなのです。家族が一緒にいてくれること自体にさえ、感謝できるはずなのです。家族の愛を見えなくしてしまっているのは、「こんなにしてあげている」という自分の思い。その傲慢が、自分に目隠しをしてしまっていることに気づきたいと思います。
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