バイブル・エッセイ(433)『心に納めて思い巡らす』


『心に納めて思い巡らす』
 羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)
 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と書かれています。羊飼いたちの話を聞いて、他の人たちは「おかしな話だなあ」と思ってすぐに忘れてしまったのに、マリアだけはしっかりと心に刻み付け、何度も思い出してその出来事の意味を考えたということです。マリアは、出来事の中にこめられた神のメッセージを聞きとろうとしたのです。
 大晦日に、1年を振り返って思い巡らした人は多いでしょう。わたしも毎年、一年分の写真を振り返りながら一つの一つの出来事を思い出すようにしています。神戸で見た初日の出から始まって岡本公園の梅、淡路島の菜の花、王子公園の桜と神戸での景色が続き、4月からは宇部に引っ越し。乙女峠祭りやアジアン・ユース・デー、福島訪問、美祢の刑務所に行く途中で出会った彼岸花やコスモスなどの写真が続いてゆきます。
 思い出の詰まった一枚一枚の写真を見ていると、心が熱くなってきます。それは、一つ一つの出来事を通して神さまがどれほどわたしを愛してくださったか、この世界を愛して下さっているかに改めて気づくからです。全体を通して振り返ることで、一つ一つの場面にこめられた神様の愛の深さが分かるのです。体験した直後にはまだ十分に分かっていなくても、思い起こし、振り返ることによって、その出来事に込められた深い意味を感じ取ることができるのです。出来事を振り返るということは、恋人からのラブレターを何度も読み返し、そこにこめられた深い愛を見つけて喜びをかみしめるのと似ているかもしれません。
 どんなに深い愛のメッセージを受け取ってもその内容を忘れてしまったり、そもそも届いていることに気づかなかったりすれば意味がありません。出来事をそのときだけで忘れ去り、思い巡らさないなら、神様のせっかくのメッセージを冷たく聞き流すことになってしまいます。聞き流しておいて、「なぜ神様は助けてくれないんだ。どうしてわたしだけこんな目にあうんだ」などと不平不満を言い始める。そんなことが多いように思います。過去の出来事を忘れ、その出来事にこめられた愛のメッセージを忘れてしまうということは、神への忘恩の始まりです。すべての出来事をしっかりと心に刻み付け、思い巡らすなら、わき上がってくるのはただ感謝の言葉だけでしょう。神からの恵みは、すでに私たちの目の前にあるのです。必要なのは、ただそれを「心に納めて思い巡らす」ことだけなのです。
 出来事にこめられたメッセージには、厳しいものもあります。たとえば、病気を通して神様がわたしたちに語りかけることもあるのです。乱れた生活を見直しなさいとか、世話をしてくれる家族のありがたみに気づきなさいとか、病気の人の気持ちがわかる人になりなさいとか、病気にもさまざまな意味がありえます。ただ、「なんでこんな目に」と恨んでいるだけでは、そのメッセージを無視することになります。せっかくのメッセージを無視しておいて、後から「なんで、あのとき言ってくれなかったんですか」と怒っても、神様からは「いや、 だからあれほど言ったのに」という答えが返ってくるだけでしょう。
 ときには、何の意味なのかまったく理解できないようなメッセージもあります。マリアに起こった出来事は、まったく理解ができないことばかりでした。しかし、マリアはそれらの出来事の中にも神様の愛のメッセージが隠れていることを信じ、それを聞きとろうとしました。だからこそ、「こんなひどいことが起こって、もうだめだ」と早合点せずに、最後まで信仰に踏みとどまることができたのです。
 どんな不条理な出来事の中にも神様の愛のメッセージが必ず隠れていると信じ、あきらめることなくその意味を尋ね続けるのが、心に納めて思い巡らす信仰です。教会設立80周年を迎える宇部教会のこの1年をより恵み豊かなものとするために、聖母マリアからこの信仰を学びましょう。
★先週のバイブル・エッセイ『まずは聞くことから』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。