バイブル・エッセイ(436)『馬鹿馬鹿しいほどの愛』


『馬鹿馬鹿しいほどの愛』
 ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:14-20)
 イエスと出会った漁師たちが、次々とイエスのあとについてゆきます。「わたしについて来なさい」とイエスから呼びかけられるとき、呼びかけを通してイエスの愛に出会うとき、わたしたちはイエスのあとについてゆかずにいられないのです。「悔い改めて福音を信じなさい」とイエスは言いますが、福音そのものである神の愛を目の前に差し出されたとき、わたしたちは信じずにはいられなくなるのです。
 先日、フランシスコ教皇が「愛を実践することこそ、福音を伝えるための一番いい方法です」とおっしゃいました。福音とは神の愛なので、神の愛を実践することこそ、最も効果的な福音宣教なのです。福音そのものを目の前に差し出されれば、誰も疑うことはできないのです。
 たとえば、いま起こっている人質事件の中に、わたしは福音の証を感じます。報道によれば、人質になっているジャーナリストは、友人を助けるために危険な地域にあえて入って行ったそうです。客観的に見れば、危険極まる、馬鹿馬鹿しい行為に見えるかもしれません。ですが、わたしはそこに確かな愛があると思います。平和な暮らしを捨て、家族を後に残しても、彼は友を助けるという自分の使命を果たさずにいられなかったのです。ここに、この世の常識を超えた愛があります。
 愛の一つの特徴は、周りの人から見ると馬鹿馬鹿しいとさえ思えるということです。愛に突き動かされている人の行動は、周りから見ると「他人のために、どうしてそこまでしなければならないのか。馬鹿じゃないか」と思えるのです。真実の愛は、理屈や利害損得の判断をはるかに超えているのです。
 イエスの愛もそうでした。イエスは、漁師たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけています。「わたしについて来なさい」と言うことは、相手の人生をそっくり引き受けるということです。わたしが、あなたたちを養い、あなたたちが本当にすべき仕事につかせてあげようということです。誰が、見ず知らずの相手にそんなことを言えるでしょう。たとえば、住むところのない人を見て、励ましの声をかけるところまでは簡単ですが、「わたしについて来なさい」と言える人はほとんどいないでしょう。この言葉の中には、常識を超えた、真実の愛がこめられているのです。このような言葉と出会うとき、わたしたちはその中に真実の愛を感じ、その愛について行きたいと思うのです。ついて行かずにいられなくなるのです。
 わたしたちも、このような愛を実践したいと思います。福音、福音と口で言うだけではだめなのです。利害損得を越えて、相手のために自分を差し出すような愛を実践することが大切です。わたしたちは、イエスのように「わたしについて来なさい」とは言えません。ですが、「わたしと一緒にイエスについて行きましょう」とは自信を持っていうことができるはずです。共に行く道で、あなたを脇からしっかり支えますと約束することはできるはずです。そのような愛を実践することができるように。そうすることで福音を宣教できるように祈りたいと思います。
★先週のバイブル・エッセイ『何を求めているのか』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。