『温もりが伝える愛』
重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。(マルコ1:40-45)
重い皮膚病で苦しむ人を、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れた」と書かれています。ただ、「清くなれ」と言うだけでも癒させたはずなのに、なぜイエスはあえて「手を差し伸べて触れた」のでしょう。
ある大きな街で、HIVエイズの患者さんのための無料相談をしているお医者さんから、こんな話を聞いたことがあります。小さな相談室で、患者さんが来てもできることは少ないのだけれど、そのお医者さんは、必ず手で患者さんの脈を取ってあげることにしていると言うのです。患者さんは、脈をとってあげるだけでもとても喜んでくれるそうです。周りの人から避けられ、誰も自分に触ってくれないという孤独の中にあるからかもしれない、とそのお医者さんはおっしゃっていました。人の温もりに飢えている人、誰かから愛されることに飢えている人を癒すには、相手に触れるのが一番なのです。
イエスがしたのは、このお医者さんと同じことだろうと思います。重い皮膚病を患っている人は、周りの人たちから遠ざけられ、触ってくれる人もいなかったでしょう。イエスは、その孤独を感じ取り、深く憐れみました。ただ声をかけることくらいでは癒すことができない絶望的な孤独を感じ取ったのです。だからこそ、イエスは「手を差し伸べてその人に触れた」のだと思います。自分は皮膚病で崩れた肌など怖くない。そんなものに関係なく、あなたを愛しているということを、イエスは行いによって示したのです。人の温もりに飢えたその人に、手の温もりによって神の愛を伝えたのです。重い皮膚病を患っている人にとっては、その愛こそ、何よりも求めていた救いだったのです。
人の温もりはとても大切だと思います。昔、インドでボランティアをしていた頃、苦しんでいる患者さんの手を握っているようにと頼まれたことがあります。意識が朦朧とし、声をかけられても意味が分からないようなときでも、肌の温もりだけは分かる。死んでゆく人にとって一番恐ろしいのは、自分が一人ぼっちで死んでゆくということだから、あなたが手を握っていることでその苦しみを取り除いてあげることができる、というのです。人の温もりには、何ものも邪魔することができない、確かな愛のメッセージが込められているのです。
もちろん、誰でも彼でも触ればいいというわけではありません。大切なのは、愛の温もりを伝えるということだと思います。言葉だけでなく、表情や仕草など全身で「わたしがあなたのそばにいますよ。あなたは大切な人です」という愛のメッセージを伝えるのです。たとえば、おばあちゃんが孫を歓迎するとき、ただ「よく来たわね」というだけでは終わらないでしょう。ポケットを探ってもしキャンディーがあれば、それを「食べなさい」と言って孫に上げるに違いありません。そのキャンディーの甘さが、おばあちゃんの温もりを伝えるのです。言葉だけでなく、温もりを伝える仕草によって愛を伝えてゆくことを、イエスから学びたいと思います。