バイブル・エッセイ(440)『誘惑との戦い』


『誘惑との戦い』
“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:12-15)
 イエスが荒れ野で四十日間、サタンから誘惑を受けられた場面が読まれました。興味深いのは、「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」と書かれていることです。天から鳩のように降ったばかりの聖霊が、イエスをあえて荒れ野に送り出したというのです。なぜ、聖霊はイエスを荒れ野に送り出したのでしょう。なぜ、イエスは荒れ野でサタンから誘惑を受ける必要があったのでしょう。
 誘惑と戦う中で、自分にとって一番大切なものが見えてくることがあると思います。たとえば富の誘惑の中で、悪魔は「たくさんのものを手に入れ、欲望を満たせば幸せになれる」と誘惑してきます。ですが、その誘惑に負けて、富を手に入れるために他の人たちを踏みつけにし、自分のことしか考えない生き方をしているとどうなるでしょう。富は手に入れても、心をゆるせる友だちはいなくなってしまに違いありません。立派な家を建てても、喜んで一緒に住んでくれる人はいない。高級外車を買っても、一緒にドライブに出かける相手もいないということになってしまうのです。誘惑と向かい合う中で、わたしたちは自分にとって一番大切なものが何かに気づいてゆきます。わたしたちにとって本当に大切なのは、富ではなく、自分と一緒に喜んだり悲しんだりしてくれる友だちであり、家族なのです。自分のことばかり考えるのをやめ、人々とのあいだに愛の絆を築き上げることによってしか、わたしたちは幸せになれないのです。
 あるいは、たとえば名誉の誘惑の中で、悪魔は「偉くなって人の上に立てば幸せになれる」と誘惑してきます。ですが、自分が偉いから、有名だからと驕り高ぶって周りのたちを見下せば、周りの人たちから相手にされなくなるのは確実です。プライドが高くなれば高くなるほど、身近な人たちの中でその人の評価は下がる。遜れば遜るほど、身近な人たちの中でその人の評価は上がる、というのが人間関係の大原則だからです。たとえ世界中の人から尊敬され、愛されたとしても、身近な人たちから愛されないなら決して幸せになることはできません。名誉の誘惑と向かい合う中で、わたしたちにとって本当に必要なのは、尊大に威張り散らすことではなく、謙遜な心で愛の中にとどまり続けことだということがわかってきます。
 権力の誘惑を受けるとき、悪魔は「わたしに従えば、世界をお前の思ったように動かすことができる」とわたしたちを誘惑します。しかし、相手を自分の思うままに動かそうとすれば、反発を受けるのは確実です。たとえ周りの人が自分のために動いてくれたとしても、しぶしぶ、いやいやで、陰口を言いながらでは何の意味もありません。大切なのは、自分が思った通りに動く世界を実現することではなく、神様が思った通りの世界を実現していくこと。自分だけでなく、すべての人が幸せに生きられる世界を実現してゆくことなのです。
 エスが悪魔の誘惑を受けたのは、悪魔がどのような手口で人間を誘惑するかを知り、その誘惑を追い払うためだったと考えられます。誘惑に負けてしまいがちな人間たちを救うため、イエス自身が、誘惑の中で人間にとって一番大切なことを確認しておく必要があったのです。この四旬節のあいだ、わたしたちも誘惑としっかり立ち向かい、自分にとって一番大切なものが何なのかを確認し直したいと思います。