バイブル・エッセイ(449)『見えないものを信じる』


『見えないものを信じる』
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:24-29)
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とイエスは言います。逆に言えば、目に見えないものを信じられない人は不幸だということでしょう。なぜなら、人間は、愛し合わなければ幸せになれまれせんが、愛は目に見ることができないからです。目に見えない愛を信じられない人は、決して幸せになれないのです。
 わたしたちが生きていく上で一番たいせつなもの、それは愛だと言って間違いがないでしょう。神様から愛されているからこそ、わたしたちは生きることができるのです。誰かから愛されていると思うからこそ、どんなにつらいことがあっても頑張って生きていくことができるのです。
 ですが、残念なことに、愛は目で見ることができません。夫や妻、親、子ども、友だちが、自分を本当に愛してくれているのかどうか、目で見て確かめることはできないのです。それが人間の限界と言っていいでしょう。愛されているという実感は、「あの人は自分を愛してくれているはずだ」という信頼に基づいてしか成立しないのです。信じられない人は、絶対に愛されている喜びをあじわうことができません。信じられない人は、いつまでも形を求め続け、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ信じない」と言って、目には見えないけれどもすぐ目の前にある愛を拒み続けることになるのです。
 なぜ、目に見えないものを信じることができないのでしょう。目に見えないものを信じられないというのは、ある意味で傲慢かもしれません。相手の心など信用できない、見えないものは存在しないに等しいという考える人は、目に見えないものを信じることができないのです。そのような人は、自分の幸せを目に見えるものだけに求めようとします。財産や地位、権力、人からの賞賛など、目で見て分かるものだけしか信頼することができないのです。目に見えないものを信じられない人は、目に見えるもので囲まれているあいだしか幸せになることができません。
 ですが、目に見えるものは、やがて消えていきます。財産も地位も権力も、自分をちやほやしている人たちも、やがては消えていくのです。病気や事故、老い、最後には死がすべてを奪い去っていくのです。最後に残るのは、目に見えない愛だけだと言っていいでしょう。病床にあって、「もう何もできないが、こんなに惨めな姿の自分だが、家族や友だちはそんな自分でも愛してくれている」、そう信じられる人だけが、愛によって死に打ち勝つことができるのです。
 それは、謙遜さと言っていいでしょう。自分の理解をはるかに越えた愛、無条件の愛を信じ、その前に跪くことができる人だけが、愛を手に入れることができるのです。目に見えない相手の心を信じられる人だけが、愛を実感して幸せになることができるのです。そのことをしっかりと心に刻み、目に見えない愛を信じられる心、謙遜な心の恵みを願いましょう。