バイブル・エッセイ(455)三位一体の救い


三位一体の救い
 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ローマの信徒への手紙8:14-17)
 今日は、父なる神と子なる神、イエス・キリスト、そして聖霊が一体であることを記念する主日です。三位一体の神秘は人間の理解を越えていますが、人間の救いは三位一体の神秘を通してのみもたらされるというのも間違いのない事実です。わたしたちは、日々、三位一体の神秘の中で救われているのです。
 そもそも救いとは何でしょうか。それは、「神の子」として生きられるということです。父なる神にすべてを委ね、穏やかな心で、喜びと力に満たされた日々を生きる。「神の子」としての誇りを持ち、神から与えられた使命を全力で生きる。それこそが救いなのです。では、どうしたら救いは実現するのでしょう。どんなとき、わたしたちは救いを実感することができるのでしょうか。
 救いの始まりは、イエス・キリストとの出会いです。聖書のみ言葉を祈りの中で味わうとき、司祭や修道士、信徒の中に生きて働いておられるイエス・キリスト、この地上のあらゆるものを通してわたしたちに語りかけておられるイエス・キリストと出会うとき、わたしたちの心は神の愛に満たされます。何もできなくても、自分が自分であるというだけで無条件に愛されている。心の底からそう感じるとき、わたしたちはイエス・キリストと出会っているのです。その体験こそが救いの始まりです。
 神の愛で心が満たされるとき、「これを手に入れなければだめだ」「この地位につかなければだめだ」「人からよく思われなければだめだ」、そのような思い込みが消えていきます。自分は神から愛されている、その事実だけで十分に満足なので、他のことはどうでもいいように思えてくるのです。わたしたちの心に恐れをもたらすのは、富や名誉、権力など被造物への執着ですが、神の愛に比べれば、どんな被造物も塵芥に過ぎません。そのことに気づくとき、わたしたちの心にすべての執着を手放す勇気と力が湧き上がってきます。その不思議な勇気と力こそが聖霊です。聖霊とは、被造物に執着し、被造物の奴隷となったわたしたちの心を解放する霊なのです。
 神の愛に満たされて執着を手放し、すべてを父なる神に委ねるとき、わたしたちは「神の子」となります。心の底から、「アッバ、父よ」と叫ぶことができるようになるのです。「神の子」とされたことへの感謝と喜びで心を満たされ、自分が「神の子」であることに誇りを持って、神の御旨のままに力強く生きることができるようになるのです。
「神の子」となる救いの業は、こうしていつも三位一体の神秘の中で実現されてゆきます。①イエスを通して神の愛と出会うとき、②私たちは解放する霊、聖霊に心を満たされ、③父なる神にすべてを委ねて生きる「神の子」となるのです。どんなときでも三位一体の神秘の中にとどまることができるよう、神の愛に心を満たされ、解放された「神の子」として生きることができるよう三位一体の神に祈りましょう。