バイブル・エッセイ(460)『キリストの声に耳を傾ける』


『キリストの声に耳を傾ける』
 エスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡りお歩いてお教えになった。(マルコ6:1-6)
 今日の福音には、イエス・キリストでさえ、自分の故郷、家族や親せきの間では敬われず、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と書かれています。身近な人たちに神の愛を伝えることがどれだけ難しいかを、わたしたちに教えてくれるエピソードだと思います。
 このようなことにならないように、まずわたしたち自身が気をつけなければいけません。復活したキリストは、いまわたしたちの中に生きていて、あらゆる人を通してわたしたちに語りかけているからです。キリストは、家族や友人、身近な人たちを通してもわたしたちに語りかけているのです。わたしたちは、どれだけその声に真剣に耳を傾けているでしょうか。
 神父仲間で話していて、ときどきこんな嘆きを聞きます。信徒がやって来て、「〇〇神父様の講演会でこんなすばらしい話を聞いて、わたしは生まれ変わった気がしました」などうれしそうに話すのだけれど、「わたしだって、いつも同じことを説教で話しているのに」というのです。信徒の中にある、「この神父の説教はいつもつまらない」とか、「この話は前にも聞いた」、あるいは「この神父のことは子どもの頃からよく知っているし、お母さんだって友だちだ」などという思い込みが、神父を通して語りかけているキリストの呼びかけを聞きとるのを妨げているならとても残念なことです。キリストは、説教がつまらない神父を通してさえわたしたちに語りかけることがあるのです。
 神父だけでなく、誰と話すときであっても、相手の言葉を聞くときには「もしかすると、いまこの人を通してキリストが話しかけているのかもしれない」と考えるようにしたいと思います。だらだらと続く愚痴や、もう何回も聞いた話、ありふれた世間話の端々を通してさえ、キリストはわたしたちに語りかけることがあるのです。「また××さんのいつもの話か」と思って耳を閉ざせば、キリストの呼びかけを聞き洩らしてしまうかもしれません。
 話し自体ではなく、誰かがそのことをあえて話しているという事実を通してキリストが語りかけている場合もあります。例えば、公の場で人の悪口を叫んでいる人がいたとしましょう。その人の言葉自体は悪魔が語らせたものであったとしても、そのような言葉を語っている人がいるという事実は、わたしたちに何かを問いかけています。叫び声の向こうから、キリストがわたしたちに「いま、こんなことを感じ、叫んでいる人がいるんだよ。あなたはこの人を救うためにどう行動する?」と問いかけているのです。感情的になって反論すれば、キリストの声もかき消してしまうことになるでしょう。
 キリスト御自身でさえ、故郷や親せき、家族のあいだでは奇跡を行うことができなかったという今日の話は、わたしたちにとって大きな励みになります。いつも一緒に生活している人のあいだでは、奇跡によってではなく、日々の生活の中で少しずつ神の愛を伝えていく以外に方法はないのです。謙虚な心で相手の中にいるイエス、相手を通して語りかけているイエスに耳を傾けることから、愛の実践を始めたいと思います。