バイブル・エッセイ(470)しもべの使命


しもべの使命
 エスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:31-35)
 ペトロは、イエスを弟子たちから引き離して諌めました。きっと、「そんなことを言ったら、みんながどう思うでしょうか」とでも言ったのでしょう。ですがイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを厳しく叱りつけます。神のしもべは、周りの人がどう思うかより、神がどう思うかを最優先に考えるべきだということでしょう。神の思いよりも人間の思いを先に考えさせるのは、サタンの誘惑なのです。
 イザヤ書の「苦難の僕」は、どれほど人間から侮辱を受けても「わたしが辱められることはない」と言い切ります。どれほど侮辱されたとしても、それで自分の人間としての価値が下がることはないと確信しているのです。神の御旨を忠実に果たしている限り、しもべには価値があります。他人の言葉で、わたしたちの価値が下がることはないのです。わたしたちを「辱める」のは、むしろ自分自身です。神の思いよりも人間の思いを優先するとき、わたしたちは自分で自分の価値を下げ、自分で自分を「辱める」ことになるのです。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエスの言葉も、わたしたちにしもべの生き方を示しています。十字架とは、それぞれが神から与えられた使命のこと。人からなんと言われようとも、自分の十字架をしっかり背負って歩き続けるしもべ、神から与えられた使命を途中で投げ捨てることのないしもべはよいしもべです。救いとは、その人が自分の使命を見つけ出し、喜びのうちにその使命を全力で生きることに他なりません。神から与えられた使命のために自分の命を捧げる人は、自分の命を救うのです。使命とは「命を使う」と書きますが、しもべの命は、正しい目的に使われてこそ輝きます。もし、人の目を気にして自分のものではない使命を担おうとすれば、しもべの命は輝きを失うでしょう。
 わたしたちは、何かをするときについ「こんなことをしたら、人からどう思われるだろうか」と考えてしまいがちです。ですが、わたしたちが考えるべきなのはむしろ、「こんなことをしたら、神はどう思うだろうか。神はわたしが、何をすることを望んでおられるのだろうか」ということです。人の声ではなく、主である神の声にこそ耳を傾けるべきなのです。
 では、どうしたら神の声が聞こえるのでしょう。神の声は、天の高みから響くものであると同時に、わたしたちの心の奥底から響くものです。まずは、自分自身の心にしっかりと耳を傾けることだと思います。自分が本当にしたいことはなんなのか。自分の本心はどこにあるのか。それを探すのです。もし、自分の心の一番奥深いところから響いてくる望みの声を探し当てられれば、それこそ神の声に間違いありません。その声は、天から響いた声のように感じられるでしょう。心の奥深くから語りかけておられる神の声に耳を傾けるときにこそ、わたしたちは自分の本心を見つけることができる、と言ってもいいかもしれません。
 わたしたちは、人間のしもべではなく神のしもべ。しもべの命は、人間の思いではなく、神の御旨を行うときにきこそ輝く。そのことを忘れず、絶えず神の声に耳を傾け続けましょう。