バイブル・エッセイ(471)子どもを受け入れる


子どもを受け入れる
 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:33-37)
「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とイエスは言います。子どもを受け入れて育てることの大変さを考えるとき、子どもを受け入れるとは、何の見返りも期待することなく子どもに自分を与えることだと言っていいでしょう。子どものために自分のすべてを捧げ尽くすと決心するとき、わたしたちの心にキリストが来られるのです。
 障害を負った子どもを育てているお母さんから、こんな話を聞いたことがあります。待ちに待って生まれた我が子に、遺伝子の異常があると医師から告げられたとき、そのお母さんは目の前が真っ暗になったそうです。子どもには心臓の欠陥もあり、生まれてすぐに大手術を受けることになりました。手術のあいだお母さんは、子どものために懸命に祈りましたが、決して願ってはいけないことだと分かっていながら、「このままこの子が死んでくれれば」という思いが一瞬心をよぎったそうです。子どもは数時間に及ぶ手術に耐え、無事に手術室から出て来ました。赤ん坊を抱きあげ、その命の温もりに触れたお母さんは、涙を流しながら自分の愚かさを子どもにわびました。そして、一生この子どもと共に生きること、何があってもこの子どもの命を守ることを神に誓ったのです。
 子どもを受け入れたとき、お母さんの心に、すべてを与え尽くす無条件の愛が宿りました。何もできない小さな赤ん坊が、このお母さんの心にキリストを連れてきたのです。何もできない小さな赤ん坊のお蔭で、このお母さんはキリストと生涯固く結ばれたのです。子どもを受け入れることによって、このお母さんはキリストを受け入れたと言っていいでしょう。
 先日、フランシスコ教皇は、ヨーロッパのすべての教会と修道院に、難民の家族を一家族ずつ受け入れるようにと呼びかけました。一つの家族が、ヨーロッパで生活の基盤を築き上げられるまですべて世話をするようにというのです。この呼びかけも、「子どもを受け入れる」ということにつながると思います。難民家族を受け入れるというのは、ちょっとやそっとの覚悟ではできません。ですが、キリストの名のゆえに難民家族を受け入れることができたなら、その教会、修道院にキリストがやって来ることは間違いないと思います。難民家族を受け入れることによって、その教会、その修道院は、すべてを捧げ尽くす神の愛で満たされるのです。
 わたしたちも、子どもや難民を受け入れる教会でありたいと思います。孤児はいなかったとしても、歳をとって何もできない子どものようになってしまった人たちは、わたしたちの身の回りにいるはずです。難民がいなくても、家があっても居場所を失ってしまった人たちは、わたしたちの身の回りにもいるはずです。そのような人たちを受け入れることで、この教会にキリストをお迎えしましょう。