バイブル・エッセイ(473)神によって結ばれる


神によって結ばれる
 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:2-9)
「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」とイエスは言います。大切なのは、相手と自分を結ぶのが、自分ではなく神様だということです。神様が結んでくださった相手と、一生を共に過ごすのが結婚なのです。
 結婚する相手と出会ったのは、さまざまな偶然が重なった結果だと言っていいでしょう。同じ時代に生まれた、同じ国、地域に生まれたということから始まって、学校、会社、共通の友人などさまざまな偶然の出会いが重なって、相手との出会いがあるのです。振り返ってみれば、なぜそうなったのかが不思議というくらい偶然が重なっていることに気づくでしょう。自分が選んだというよりは、結果としてそうなったと言ってもいいくらいです。その不思議さの中に、神様の導きがあります。神様がわたしたちを導き、出会わせて下さったのです。
 神様が出会わせ、結んで下さったならば、決して離れるべきではありません。なぜなら、神様に導かれて出会い、結ばれた二人は、二人でいることでのみ幸せになることができるからです。神様によって結ばれた二人は、離れることができないと言ってもいいでしょう。子どもが親を替えられないのと同じように、親は子どもを替えられないのと同じように、神様によって結ばれた二人は、自分のパートナーを替えることができないのです。
 結婚相手を選ぶということは、神様が出会わせてくださった相手を見分けるということに他なりません。単に、自分にとって好ましいか好ましくないか、損か得かだけで判断して選んではいけないのです。大切なのは、その人が、本当に神様が出会わせてくださった相手かどうかを見極めることなのです。
 単に、相手が「好き」だからというだけで結婚するなら、その結婚は決して長続きしません。「好き」というのは、相手が自分にとって好ましいということだからです。相手が好ましさを失えば、当然「さようなら」ということになるでしょう。結婚するためには、何があっても揺らぐことのない愛が必要です。相手がすべての好ましさを失ったとしても、相手が相手である限り寄り添い続ける。それが愛です。事故にあって半身不随になっても、痴呆になって何も分からなくなってしまったとしても、神様が結んで下さったかけがえのない相手だからという理由だけで寄り添い続ける。それが愛なのです。
 結婚だけではなく、すべての出会いに同じことが当てはまると思います。わたしたちが出会う相手は、自分で選んだ相手ではなく、実は神様が出会わせてくださった相手なのです。具体的に言えば、わたしたちが自分で教会に集まったのではなく、神様がわたしたちを教会に集めて下さったのです。わたしたちは、神様によって結ばれ、一つの家族になったのです。自分にとって好ましい人だから受け入れるというのでは、愛ではありません。神様が出会わせてくれた人だからという理由だけで受け入れるのが愛なのです。わたしたちが、愛によって結ばれ、愛を生きる共同体になることができるよう神様に祈りましょう。