バイブル・エッセイ(476)何をしてほしいのか?


何をしてほしいのか?
 エスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコ10:46-52)
 喜び勇んでやって来た盲人バルティマイに、イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねました。「憐れんでください」と叫ぶバルティマイに、その真意を尋ねたのです。バルティマイは迷わず「目が見えるようになりたいのです」と答え、その願いをかなえられました。「憐れんでください」という願いが聞き届けられてイエスの前に出ることをゆるされ、イエスから「何をしてほしいのか」と尋ねられたとき、わたしたちならどう答えるでしょうか。わたしたちは、何を求めてイエスの名を呼んでいるのでしょうか。
 わたしたちは、自分の目が実際にはよく見えていないことに気づかないまま、すべてがよく見えていると思い込んでいる盲人に似ているように思います。例えば、誰かについて「あの人はこんな人だ。だからこうするに違いない」と思い込んで、苛立ったり、憎しみを募らせたりしますが、実際には、そうではない場合が多いのです。ありのままの相手を見ればそれほどひどい人ではないのに、偏見にくもらされた目で相手が見えなくなっているのです。
 自分が置かれている状況についても、同じことが言えるでしょう。「このままゆけば、きっとこうなるに違いない。もうだめだ」と考えて心配したり、絶望したりしますが、実際にはそうならない場合が多いのです。まだ絶望するほどの状況ではないし、できることはたくさんあるのに、恐れによって目がくもり、状況が見えなくなってしまっているのです。ありのままの相手、ありのままの世界を見て、正しく行動できるように、わたしたちは思い込みや恐れによってくもらされ、見えなくなってしまっている目をイエスに開いてもらう必要があるのです。
 自分の目が閉じていることに気づかないと、まったく見当違いな願いをしてしまうことになりかねません。この盲人が、もしイエスの前に立ちながら、「食べ物を下さい」とか「お金を下さい」と願っていたらどうでしょうか。周りの人たちは、「そんなことより、もっと大切な願いがあるだろう」と思うに違いありません。わたしたちは、それと似たようなことをしてしまいがちなのです。例えば、自分の思い込みに問題があるのに、「あの嫌な相手が回心しますように」と願ったらどうでしょう。自分が諦めてしまっているだけで、まだまだ何とかなるはずなのに、「ここから別の場所に移してください」と願ったらどうでしょうか。そんなことよりも、もっと大切な願いがあるはずです。思い込みや恐れによって閉ざされた目が開かれさえすれば、すべての問題が解決するのです。
 大切なのは、自分の目がよく見えていないということに気づいていることです。イエスの前に立ち、「何をしてほしいのか」と尋ねられたときに正しく答えられるように、いつも自分の問題に気づいている必要があるのです。それは思い込みや恐れであるかもしれないし、傲慢やプライド、乱れた執着であるかもしれません。
 気づいてイエスの前に跪き、心の底から願うならば、イエスは必ずかなえて下さいます。イエスの愛の中で、わたしたちの目をくもらせている思い込みや恐れ、傲慢、プライド、執着などはすべて取り去られるのです。「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは言いますが、自分の問題に気づいて、イエスの前に跪くことこそ信仰です。謙遜な心で、自分の問題に気づくことができるよう願いましょう。