バイブル・エッセイ(482)道をまっすぐに整える


道をまっすぐに整える
 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:1-6)
 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という洗礼者ヨハネの声が荒れ野に響きます。その声は、警告というより、むしろ主の到来が近いという喜びの知らせです。大切な方が来られるのですから、その方のために万全の準備をするのは当然です。部屋をきれいに準備し、道をまっすぐに整えなければなりません。エスが通って来られる道、その道はわたしたちの心だと考えていいでしょう。イエスがまっすぐたどり着けるよう、心をまっすぐに整えておく必要があるのです。
 では、どうしたら心をまっすぐに整えることができるのでしょう。そのための鍵が、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」というフィリピ書1章の言葉に隠されているように思います。重要でないこと、どうでもいいことに心を惹かれるからわたしたちの道は脇にそれ、曲がりくねってしまうのです。本当に重要なことを見失いさえしなければ、わたしたちは心を神に向けてまっすぐ整えることができるに違いありません。
 わたしたちにとって本当に重要なこと、それは神がわたしたちに望んでおられることです。神から与えられた使命を果たすときにだけ、わたしたちの人生は意味あるものになるのです。ですから、本当に重要なことを見極めるためには、神に尋ねる以外にありません。わたしたちの心の一番奥深いところに住んでおられるイエスに、祈りの中で尋ねるのです。わたしたちの心の一番奥深いところから響いてくる声に、しっかりと耳を傾けるのです。わたしたちの心の一番奥深いところから響いてくる声、わたしたちの本心と呼ばれるものは、実はイエスの呼びかけです。その呼びかけにしっかり耳を傾けるとき、わたしたちの心はイエスに向かってまっすぐに整えられてゆきます。
 わたしたちの心は、さまざまなものに執着することで曲がりくねってしまっています。待降節は、執着を一つひとつ取り除き、心をまっすぐに整えてゆくためのときです。もし、名誉や人からの評価に執着しているのならば、それが自分の本当の望みなのか自分の心に尋ねてみたらいいでしょう。もし衣服や持ち物、財産などに執着しているのならば、それは自分を本当に幸せにしてくれるのかと、自分の心に尋ねてみたらいいと思います。そうすることで、神の望みが何であるのか、自分が本当にしたいことは何なのかが分かるでしょう。幸せになるために本当に必要なものが何なのかが分かるでしょう。
 一つだけはっきりしているのは、何を求めるにせよ、わたしたちの心を完全に満たすことができるのは神さまのいつくしみ、ありのままのわたしたちを受け入れてくれる無条件の愛だけだということです。神のいつくしみがあるところに、わたしたちの幸せもあるのです。たとえば家庭。たとえば友情。たとえば教会。たとえば奉仕。誰かにやさしく声をかけること。争っている人と和解すること。そのようなことの中にこそ、わたしたちの幸せがあります。心をまっすぐにすることで、わたしたちはどこに神のいつくしみがあるかを、はっきり見分けることができるようになるのです。間もなく、「いつくしみの特別聖年」が開年します。この一年間、どんなことがあっても神のいつくしみを選び続け、わたしたちの心を、わたしたちの人生そのものをまっすぐに整えてゆくことができますように。