バイブル・エッセイ(485)聖家族の旅


聖家族の旅
 エスの両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:41-52)
 心配してイエスを探していたマリアに向かって、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」とイエスは言いました。この言葉は、わたしたちに大切なことを思い出させてくれます。親にとって子どもは、自分の子どもであると同時に、神様の子どもだということです。
 親は子どものことを心配し、気をもみますが、神様と子どもとの関係は親には理解できません。親の目から見ると迷子になっているように見えたとしても、神様はしっかりと子どもを導いて下さっているのです。ですから、子どもが「ミュージシャンになりたい」とか「スポーツ選手なる」と言い出しても、「なにを馬鹿なことを」と頭から否定するのはよくありません。それがたとえ迷いの道だったとしても、子どもが成長するために必要な道かもしれないからです。神様は、人間が成長するために必要な試練を与えます。その試練を通らない限り、子どもは成長することができないのです。親は、神様を信じ、子どもを神様の手に委ねる以外にありません。自分の思い通りに育てようとして、神様の業に干渉してはならないのです。親の使命は、子どもが神様に導かれながら進んでゆけるよう見守ってあげること。道を見失いかけているときに、助けの手を差し伸べてあげること。そして何より、子どものために祈ることです。
 子どもに限らず、家族全てに同じことが言えます。お父さんもお母さんも、おじいちゃん、おばあちゃんも、一人の残らずみな神様の子どもです。それぞれに神様との関係があり、神様はそれぞれに一番ふさわしい救いの計画を準備して下さっているのです。わたしたちとしては、神様を信じ、家族を神様の手に委ねる以外にありません。自分の思い通りにしようとして、救いの業に干渉するようなことがあってはならないのです。
 わたしたちは、つい家族に過剰な期待をしてしまいがちです。ですが、誰もが救いを必要としている「神の子」だということを忘れてはいけないと思います。子どもは親に完璧をもとめてしまいがちですが、親もまた神の前では道を探して迷う「神の子」なのです。親として見ないで、自分と同じ「神の子」として見るとき、どのように関わったらいいかが分かるでしょう。子どもが親から愛されたいと願うのと同じくらい、親も子どもから愛されたいと願っているのです。互いにいたわり合うことが、神様から家族に与えられた使命なのです。
 そもそも、聖性とは、神の御旨のままに生きるということです。家族がどれほど互いのことを思っていたとしても、神の御旨にかなっていないならば聖家族ではありません。「共に祈る家族は、共に生きる家族」(A family that prays together, stays together.)という言葉がありますが、家族で共に神の前にひざまずき、祈りながら進んでゆく家族こそが聖家族なのです。自分たちの思いにしがみついていれば、仲のよい家族ではありえても、聖なる家族ではありえません。互いを見るのではなく、手を取り合いながら、「神の国」に向かって一緒に進んでゆくのが聖家族なのです。エルサレムまでの道を旅した聖家族のように、互いに助け合いながら人生の旅を続けてゆくことができるよう神様の恵みを願いましょう。