バイブル・エッセイ(490)愛の奇跡


愛の奇跡
 エスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ4:21-30)
預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」という有名な言葉が読まれました。預言者は、他の場所では奇跡を起こすことができても、自分の故郷ではなかなか奇跡を起こすことができません。故郷の人々は、先入観にとらわれて預言者を拒むからです。この地上に奇跡を引き起こすのは愛。神がどれほど人々を愛していたとしても、人々が神の愛を拒むならば決して奇跡は起こりません。
 エレミヤ書に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」と書かれている通り、神はわたしたちが生まれる前、まだ受胎さえしていない頃からわたしたちと共にいてくださいました。いまこの瞬間にも、わたしたちと共にいてくださいます。いつかわたしたちが地上を去るときも、わたしたちと共にいてくださるに違いありません。「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と言われている通り、神は、どんなときでもわたしたちと共にいて、わたしたちを守ってくださる方、わたしたちを愛してくださる方なのです。
 大切なのは、神の愛に心を閉ざしてしまわないことです。神の愛に向かって、いつでも心を開いていることです。「何があっても、神がわたしを見捨てることはない。神はわたしを愛してくださっている。」その確信が奇跡を生みます。あらゆる困難を乗り越えて進んでゆく力をわたしたちに与えてくれるのです。
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とパウロは言います(一コリ13)。信仰とは、神がどんなときでもわたしたちを愛してくださっていると信じることに他なりません。神の愛を信じ、決して疑わないこと、それが信仰なのです。希望とは、神がわたしたちを見捨てることは決してないという確信です。神の愛こそが、信仰と希望の土台なのです。神の愛を拒まない限り、わたしたちが信仰と希望を失うことはありません。
 生きてゆくために一番大切なのは、「わたしは、生まれながらに神から愛されている」という実感であり、確信だと思います。「わたしは、生まれながらに神から愛されている」。わたしたちは、何よりも先にこの事実を学ぶ必要があります。学校教育の現場では、「自尊感情」という言葉が使われているようです。自尊感情とは、すなわち自分は、自分であるというだけで尊いという確信です。
 自尊感情が育っていない人が勉強すると、「自分は成績がいいから価値がある」という歪んだエリート意識を持ち、成績が悪い人を馬鹿にするようになります。そのような人は、成績が頭打ちになるなどして挫折したときには立ち直ることができません。逆に、自尊感情が育っている人は、成績が上がったくらいで傲慢になることはありません。挫折の体験を味わったとしても、自分は自分だというだけで価値があると確信しているので乗り越えてゆくことができます。
 このような自尊感情の土台となるのが、「わたしは、生まれながらに愛されている。守られている」という確信です。家族や学校の先生、友達、教会の仲間たちの愛を通して注がれる神の愛が、自尊感情を育ててゆくのです。互いを大切にすることによって、「わたしは、生まれながらに神から愛されている」という確信を互いに深めてゆくことがわたしたちの使命だと言っていいでしょう。神の愛が心に宿れば、信仰と希望はついてきます。信仰、希望、愛があれば、わたしたちはどんな困難も乗り越えて進んでゆくことができます。神の愛を信じて疑わない者、互いの心に神の愛を育てる者となれるように祈りましょう。