バイブル・エッセイ(491)恐れることはない


恐れることはない
 エスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5:1-11)
 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とペトロは言いました。罪は、人を神から遠ざけます。罪はわたしたちの心に、「してはいけないと分かりきっていることをしてしまった。神の前に出る資格がない」という、深い自責の念を生むのです。ですが、イエスは「恐れることはない」と言いました。エスは、ペトロが罪びとであることなど初めから知っていたからです。その上で、ペトロに近づき、話しかけたのです。
 日常生活の中で、わたしたちは多かれ少なかれ、自分の罪深さをうまく隠して生活しています。うまく隠して、罪がないかのようにふるまっているのです。ペトロが「わたしは罪深い者なのです」と告白したのは、イエスも自分のことをよくわかっていない。これ以上、イエスをだまし続けるわけにはいかないと思ったからでしょう。
 ですが、イエスは初めからすべてをご存知でした。知った上で、ペトロを招かれたのです。自分の罪が暴かれるのを恐れる必要など、まったくなかったのです。エスの愛に触れ、自分の罪を深く恥じてイエスの前にひれ伏す者を、イエスは快く受け入れてくださいます。罪びとであるわたしたちを、「神の子」として迎え入れて下さるのです。何も恐れる必要などありません。
 神様は、わたしたちの罪からさえよいものを生み出すことがおできになる方です。たとえば、何か間違いを犯してしまったとき、わたしたちは自分の弱さを知ります。弱さを知って、すべてを神に委ねることができるようになります。同じような間違いを犯して苦しんでいる人に、深く共感できるようになります。神様は、罪を通して、わたしたちを謙遜で愛情深い人間に生まれ変わらせることがおできになるのです。
 よいことをするとき、心に虚栄心が混ざっていたとしても、「虚栄心が混ざっているから、こんなことはするべきでない」と考える必要はありません。また、出会った相手を100%受け入れることができなかったとしても、「相手を完全に受け入れることができないから、話しかけるべきでない」と考える必要はありません。人間がすることに、100%ということはないからです。多少の罪が混ざっていたとしても、神様はそれさえも用いて下さいます。神の手に身をゆだねて奉仕しているうちに、相手を思う純粋な愛が、やがてわたしたちの心に巣くった罪を押しつぶしてゆくのです。
 神様は、すべてをお見通しです。知った上でわたしたちに寄り添ってくださっているのです。自分の罪を隠そうとしたり、恥じたりする必要はありません。自分の限界を認めてひざまずき、神様に身をゆだねるとき、神様は罪深いわたしたちを通してこの地上に御旨を実現されます。「恐れることはない」というイエスの言葉を、しっかり心に刻みましょう。