バイブル・エッセイ(493)復活の栄光の先取り


復活の栄光の先取り
 エスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:28-31)
 「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」という、イエスのご変容の場面が読まれました。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わった」ということは、祈っているうちに、イエスの心に何か変化が起こったことをうかがわせます。心の中に起こった変化が、イエスの姿を変化させたのです。
 イエスの顔の様子は、どのように変わったのでしょうか。最近のCGを使ったコマーシャルでよくあるように、くたびれたぱっとしない顔がみるみるうちに光り輝くイケメンになるとか、そのような変化でしょうか。そうではないと思います。山に登るときイエスは、きっと厳しい表情だったでしょう。エルサレムでの処刑や弟子たちの裏切りを予感して、苦しみの十字架にじっと耐えていたからです。その苦しみに耐えるために、側近の弟子たちだけを連れて山に登ったとさえ考えられます。山に登るというのは、神に近づき、神に助けを求めるということの象徴だからです。
 山で祈っているうちに、イエスの顔の様子が変わりました。これまで厳しくて暗かった顔がみるみるうちに和らぎ、明るく輝き始めたのです。イエスの内面に大きな変化が起こったことは明らかと言っていいでしょう。祈りの中で、「あなたはわたしの子。選ばれた者」という神の言葉を、いち早く聞き取ったのかもしれません。祈りの中で神の深い愛に触れたとき、イエスの心は喜びと感謝で満たされました。心を満たした喜びと感謝が表情からあふれ出し、イエスの顔を輝かせたのだと考えられます。表情だけではなかったでしょう。もしイエスがそれまで背を曲げて下を向いていたならば、背筋を伸ばして顔を天に向けなおしたはずです。全身から喜びがあふれ出したに違いありません。「服が真っ白に輝いた」というのは、そのようなイエスの全身の変化と対応しているように思われます。
 このようなことはよくあります。たとえば、聖堂に入って来るときは暗い顔をしていた人が、ミサが進むにつれてだんだん表情が変わり始め、聖堂を出るときにはすっかり明るい顔になっているのをときどき見かけます。あるいは、聖書のある言葉が朗読されたとき、これまでつまらなそうな顔で聞いていた人の表情がぱっと変わることがときどきあります。神の愛によって心の闇が取り払われ、心に希望の光がともされるとき、わたしたちは輝き始めるのです。
 たとえば、私たちをさいなみ、表情を暗くする孤独の痛み。どれほどひどい孤独の痛みも、神の愛に触れるとき取り去られます。祈りの中で神の愛と出会い、自分は独りぼっちではないということに気づくとき、わたしたちの顔は輝き始めるのです。あるいはたとえば、心に重苦しくため込める将来への不安や怖れ。祈りの中で、神がどんなときでも見守り、導いてくださることに気づくとき、不安や怖れは消え、心は晴れやかになってゆきます。自分の思った通りにならない家族や友人への怒りによって暗くなった顔も、神の前にひざまずく謙虚さを取り戻し、神にすべてを委ねるとき再び輝き始めます。
 復活のとき、わたしたちの心を暗くする孤独や不安、怖れ、怒りは、わたしたちの心から完全に取り去られます。復活のとき、わたしたちの心は隅々まで神の愛で満たされるのです。そのとき、わたしたちの全身は復活の栄光に輝き始めます。神と深く結ばれることで、復活の栄光を日々の生活の中で先取りすることができるように。日々の生活の中で復活の栄光を輝かせることができるように祈りましょう。