バイブル・エッセイ(497)ひざまずいて足を洗う


ひざまずいて足を洗う
 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とイエスは言います。その言いつけの通り、今日はこれから司祭が信徒の皆さんの足を洗います。足を洗うことに、いったいどんな意味があるのでしょう。
 足を洗うとき、司祭は相手の前にひざまずきます。教皇様も今日、難民の方々の足を洗うことになっていますが、その方々の前にひざまずくことでしょう。相手の足もとにかがみこむとき、わたしたちは相手を見上げるような姿勢になります。この姿勢は、謙遜さの象徴と言っていいでしょう。上から目線で相手を見下すのではなく、相手の足元にひざまずいて相手を見上げるのです。そして、相手の汚れた足を洗います。相手のために、喜んで自分を差し出すのです。キリストの弟子として生きたいのならば、この世の多くの人々のように傲慢に相手を見下し、相手を利用しようとするのではなく、謙遜な心で相手の前にひざまずき、相手のために自分を差し出すようにということでしょう。
 ひざまずいて奉仕するといっても、形だけでは意味がありません。自分を低い者とみなし、相手を尊敬する心がないならば意味がないのです。では、どうしたら相手を尊敬できるのでしょう。ひざまずくためには、相手の中に神を見ることが必要だと思います。相手の命の中に宿っているイエス・キリストを感じ、神の愛を感じ、生命の神秘を感じて、その前にひざまずくのです。どんな人の命の中にも、必ず神が宿っている。そのことを信じ、感じ取って、相手の前にひざまずくのです。
 教皇様が難民の皆さんの前にひざまずくことには、本当に大きな意味があると思います。そうすることで、教皇様は難民の皆さん一人ひとりの命がかけがえのないものであること。限りなく尊いものであることを難民の皆さんに、そして全世界に伝えるのです。教皇様は、刑務所を訪ねて囚人たちの足を洗ったこともありますが、それも同じことです。教皇様は、人間の命の偉大さの前にひざまずくことで、一人ひとりの命の尊さを全人類に証したのです。一人ひとりに注がれた神の愛を全人類に証したのです。足を洗うということは、彼らのために、喜んで自分を差し出さずにはいられないということの証です。教皇様の行いは、誰一人として、見捨てられていい人間などいないということ。世界は、もっと難民や虐げられた人々に目を向けるべきであることを全人類に訴えています。
 司祭が、信徒の足を洗うというのも同じことです。信徒一人ひとりの中にイエス・キリストが宿っていること。信徒の一人ひとりがイエス・キリストであり、限りなく尊い命であることを行いによって証するのです。イエス・キリストをうちに宿した限りなく尊い信徒のために、自分を喜んで差し出さずにいられない。その思いを、行いで証するのです。これは、司祭だけの務めではなく、すべての信徒に与えられた務めです。互いに「足を洗いあう」ことで神の愛を証できるよう祈りましょう。