バイブル・エッセイ(503)キリストの言葉を守る


キリストの言葉を守る
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。(ヨハネ14:23-29)
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」とイエスは言います。エスの言葉に背いて生きるとき、わたしたちの心は、絶えず恐れや不安にかき乱されています。ですが、イエスを愛し、イエスの言葉に従って生きている限り、父なる神とイエスがわたしたちの心に住んでいるので、何の恐れも、心配もありません。どんなときでも、心は喜びと安らぎで満たされています。それこそ、「わたしの平和をあなたがたに与える」とイエスが言われた平和です。
 大切なのは、どんなときでもキリストの言葉を守るということです。自分の言葉ではなく、キリストの言葉に従って生きるとき、わたしたちの心にキリストが宿るのです。例えばわたしの場合であれば、「神父さん、お説教が長くて退屈ですね」とか「説教では立派なことを言っているのに、実際は大したことがないですね」とか嫌なことを言われたとき、「なんだこいつ、頭にくるな。どうやって反論してやろう」というような声がすぐに心の中に響きます。ですが、その声に従ってはいけません。それは、自分自身の声であってキリストの声ではないからです。その声に従って反論すれば、終わりのない喧嘩、対立、反目が始まるのは間違いありません。
 キリストは、どんなときでもわたしたちに「互いに愛し合いなさい」と語りかけています。腹が立つことを言われたとしても、その声に耳を傾け、その言葉を守るのがキリスト教徒です。条件反射的に怒りがこみあげてくるのは仕方がないにしても、その声は無視してキリストの声に耳を傾けるのです。「互いに愛し合いなさい」というキリストの言葉を守るためには、頭を冷やして、「この人は、なぜこんなことを言うのだろう」「この人のために自分に何ができるだろうか」と考えたらいいでしょう。神から与えられた使命を思い出し、自分のことではなく、相手のことを思って行動するのです。そのとき、わたしたちの心に平和がやって来ます。嫌な相手とのあいだに和解の道が開け、前よりもっと強い信頼のきずなが結ばれることさえあるのです。そのようにして生まれてくるのが、キリストの平和です。
 キリストの平和とは、「しがみついて守ろうとする平和」ではなく、「手放して委ねる平和」だと言っていいでしょう。自分の財産や名誉、権力にしがみつき、それらを守ることを平和と考える人がいますが、それはかえって争いをもたらします。そのような平和は、「財産や名誉、権力を脅かす相手を、どうやってやっつけようか」という考えと表裏一体だからです。キリストの平和は、逆に、自分の財産や名誉、権力などを神のために手放し、神の手に委ねるときにやって来る平和です。「神の御旨であるならば、自分がどれほど損をし、どれほど侮辱され、こき使われたとしてもかまわない。どうしたら苦しんでいるここの人を愛し、救うことができるだろうか」と考えるとき、わたしたちの心にキリストが宿り、父なる神の愛が宿ります。あらゆる恐れや不安から解放され、心の底から喜びと力が湧き上がって来るのです。それがキリストの平和です。
 キリストの平和は、違ったものや迷惑なものを排除することで自分を守る平和ではなく、あらゆる違いを乗り越え、すべてを一つの愛で包み込んでゆく平和です。キリストの平和の中で、わたしたちの心に湧き上がって来る喜びや力こそ、神のもとから遣わされた聖霊です。キリストの平和の中で、聖霊に満たされて生きることができるよう祈りましょう。