バイブル・エッセイ(507)共に喜び、共に苦しむ


共に喜び、共に苦しむ
★このエッセイは、5月25日に松山市聖カタリナ学園で行われた「聖母を讃える集い」での説教に基づいています。
 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。(ルカ1:39-56)
「愛には偽りがあってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とパウロは言います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12:15)、この言葉の中に愛とは何かが要約されているようです。誰かを愛するとは、その人をまるで自分自身のように大切に思うということ。相手にうれしいことがあれば、心の底から一緒に喜び、悲しいことがあれば涙をこぼして一緒に泣く。それが愛なのです。
 聖母マリアとエリザベトのあいだに、確かにこの愛があります。親戚のエリザベトが歳をとって身ごもったと聞くと、困っているに違いないと思ってすぐに駆け付けました。マリアはエリザベトをまるで自分自身のように大切に思っていたので、そうせずにいられなかったのです。マリアは、エリザベトの苦しみをまるで自分のことのよう感じ、エリザベト共にその苦しみを担ったのです。エリザベトも、マリアをまるで自分自身のことのように大切に思っていました。だからこそ、マリアが「神の母」として選ばれたことを、まるで自分のことのように心の底から喜ぶことができたのです。この世の中、人の不幸を喜ぶ人はたくさんいますが、人の幸せを喜ぶ人はあまりいません。どうしてもひがみが生まれてしまうからです。相手を本当に大切に思っていなければ、自分のことのように喜ぶことはできないのです。相手の幸せを心の底から喜ぶことができるなら、それは確かに相手を愛しているしるしだと言っていいでしょう。(自分が成功したときに、周りの人がどんな態度をとるかによって、相手が自分をどの程度思ってくれているかがわかるかもしれません。失敗した時に同情してくれる人は多くても、成功した時に喜んでくれる人はそれほど多くないのです。)
 今回の熊本地震で、わたしは支援物資を運んだりボランティアをしたりするために、ほとんど毎週のように熊本を訪れています。それは、そうせずにいられなかったからです。熊本の教会のみなさんとは、もう15年以上のお付き合いになります。折にふれて訪ね、今年も2月に行ったばかりでした。わたしにとって、熊本の人たちはとても大切な人たちなのです。だから、震災が起こったと聞くやいなや、すぐに駆け付けずにはいられなかったのです。
 熊本では、地震で壊れた家の後片付けや、ごみの仕分けなどのボランティアをしました。今回の地震では、何千もの家が破壊され、何万トンものごみが出ました。ですが、わたしが手伝えることなどは本当に限られています。十人がかりでやっても、一日で一件の家の後片付けを終えるのが精いっぱいなのです。膨大なゴミの山を前にして、「いったい、いつになったら片付くのだろう」と途方にくれることもありました。ですが、そんなわたしの隣で、家の方々は黙々と家の片付けを続けています。子どもの頃から住み慣れた家が壊され、どんな気持ちで片付けているのだろうと思うと、わたしも手伝わずにいられなくなりました。
 ボランティアでできることは限られているかもしれません。ですが、どんなに小さなことだったとしても、相手の苦しみを自分自身のことのように感じ、自分に出来る精一杯のことをするとき、そこに確かな愛が生まれます。その愛には、限りない価値があるのです。マザー・テレサは「わたしたちのしていることは、大海の一滴にすぎません。ですが、やめてしまえば大海は一滴分小さくなるでしょう」と言いました。大切なのは、ほんの一滴であっても、真実の愛を注ぎ続けることなのです。どんなに小さな一滴であっても、世界中の人々の一滴が集まれば、大きな愛の海が生まれるでしょう。相手のことを考えず、ただ自己満足のために大きなことをしたとしても、そこには愛がありません。そんなことをどれだけしても、愛の海はできないのです。ここにいるわたしたち一人ひとりが、「苦しむ人と共に苦しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ」真実の愛を注ぎ続けることができるよう、聖母マリアのとりなしを願って祈りましょう。