バイブル・エッセイ(510)「ゆるされるために」


ゆるされるために
 あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。(ルカ7:36-50)
 ファリサイ派のシモンに向かって、「ゆるされることの少ない者は、愛することも少ない」とイエスは言います。自分の罪深さを知ってひざまずく者を、神は必ずゆるしてくださいます。取り返しがつかないほどの罪をゆるされた者は、心の底から神に感謝し、神を愛さずにいられません。「ゆるされることの多い者は、愛することも多い」のです。自分はゆるされる必要などないと思い込んでいる人は、神のゆるしを体験することも、神を愛することもないでしょう。
 法主義の一番大きな問題は、律法を守りさえすれば、神から愛されると思い込んでいることです。神の愛さえ、自分の努力で手に入れることができると思い込んでいるのです。自分の力で手に入れたと思っているので、どんなに愛されたとしても、神に感謝することも、神を愛することもありません。ですが、真実の愛は、どんなときでも自分の力で手に入れるものではなく、相手から無条件に与えられるものです。自分の力で手に入れたと思っている限り、それは本物の愛ではありません。なぜなら、そこには相手への愛がないからからです。愛されるだけで、愛することがないなら、それは本物の愛ではありません。「わたしは取るに足りない罪びとでしかない。だが、神はこんなわたしを愛し、ゆるしてくださった」と信じるとき、わたしたちの心に神への愛が生まれます。神がわたしたちを愛し、わたしたちが神を愛するとき、神とわたしたちの間に真実の愛が生まれ、その瞬間にわたしたちは救われるのです。信仰によって救われるとは、つまりそういうことです。
 ダビデは、取り返しがつかないくらい大きな罪を犯しました。ですが、ダビデが「わたしは主に罪を犯した」と言ったとき、ナタンはただちに「その主があなたの罪を取り除かれる」とダビデに告げます。ダビデが自分の罪深さに気づいて神の前に跪いたとき、罪のゆるしが宣言されたのです。自分が罪びとであることを認め、神の前に跪くものを、神は必ずゆるしてくださいます。ゆるしである神には、ゆるさないという選択肢がないのです。ですが、ゆるしを求める者がいないなら、神はゆるすことができません。どんなに愛したくても、愛を受け止めてくれる相手がいないなら完全な愛は成立しないように、どんなにゆるしたくても、ゆるしを受け止める相手がいないなら完全なゆるしは成立しないのです。
 自分の罪を認め、神の前に跪いたなら、次に必要なのは「神は、こんなわたしでも愛し、ゆるしてくださる」と信じることです。「ゆるしの秘跡」で司祭が罪のゆるしを宣言するのは、神のゆるしを、目に見える形で伝え、信じられるようにするためだと言えます。ゆるされるとは、目に見えない神のゆるしを信じることです。ゆるされたと信じたとき、わたしたちはゆるしを体験するのです。ゆるされた瞬間、わたしたちの心は神への愛に満たされ、わたしたちに救いが訪れます。自分と向かい合う勇気と、ゆるしを受け入れるための信仰を神に願いましょう。