バイブル・エッセイ(562)一匹の羊を探して


一匹の羊を探して
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ15:1-10)
 99匹の羊を置いて1匹の羊を探しに行く羊飼いと、失われた1枚の銀貨を懸命に探す女性の話が読まれました。財産が惜しいというわけではありません。これらの話が教えてくれるのは、神が人間の一人ひとりをどれだけ大切に思っているかということ。これらは、神のいつくしみのたとえ話なのです。
 99匹いるなら、それを守って1匹は見捨てればよいではないかという考え方もあります。確かに、合理的に考えればそうでしょう。ですが、神様は失われた1匹を放っておくことができません。99匹が無事だったとしても、迷子になって苦しんでいる1匹のことが頭を離れないのです。神様は、いてもたってもいられなくなって、迷子の子羊を探しに出かけます。愛は、非合理なのです。
 迷子になった子羊を、放っておくことができない。先日行われたマザー・テレサ列聖式でも、教皇様がこのような神様のいつくしみについて語られました。神様は、社会の片隅に追いやられている羊たちを放っておくことができないのです。神様は、貧しい中でも最も貧しい人々の傍らに寄り添われるのです。たとえ全世界のすべての人が無視したとしても、神だけは放っておくことができません。なぜなら、その人は自分の大切な羊だからです。一人ひとりがかけがえのない「神の子」だからです。
 マザー・テレサは、そのような神様の愛をはっきりした形で全世界に示しました。マザーのシスターたちは今日も、その国の人たちが世話をしきれなくなった人たちのために働いています。例えば、日本であれば、東京の下町で年金や生活保護を受けて暮らすたくさんの人々の元に、シスターたちは今日も神の愛を届け続けています。飢えて死ぬことがなかったとしても、誰からも関心を持たれず、必要とされずに暮らしている人たちがいれば、それこそ世界で一番ひどい貧困だとマザーは考えていました。
 「神の愛」とは、苦しんでいる人がいれば、放っておくことができないということです。苦しんでいる人々の存在に関心を持ち、その人たちの魂の救いために自分にできる限りのことをする。それが神の愛です。子どもでもわかるくらいシンプルなことですが、それに尽きます。わたしは子どものころ、キリスト教のことはまったく知りませんでしたが、インドで貧しい人たちに奉仕するマザーの姿を見て心を打たれました。苦しんでいる人がいれば放っておくことはできない。その当然のことを、マザーが実行していたからです。わたしが感動したのは、神の愛に触れたからでした。何も知らない子どもでさえ、マザーの行動から神の愛を感じ取ることができたのです。
 苦しんでいる人がいれば、放っておくことができない。教皇様がおっしゃったように、これこそが、わたしたち自身の行動規範となるべきです。「神の愛」によって救われたわたしたちには、同じようにして人々を救うことが求められているのです。
 「苦しんでいる人たちがいる場所こそ、わたしたちのいるべき場所」という教皇様の言葉をしっかりと胸に刻みたいと思います。苦しんでいる人たちを放っておくことができず、すべてを捨てても出かけてゆく愛を実践することができますように。