バイブル・エッセイ(568)被造物への愛


被造物への愛
エスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:1-10)
 イエスがザアカイの家を訪れる場面が読まれました。人々は「罪深い男の家に泊まった」と言ってイエスを非難したがましたが、イエスは「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と宣言します。エスは罪人を裁くためではなく、道を見失った「神の子」を、一人残らず神様のもとに連れ戻すためにやって来たのです。
 知恵の書は、「主よ、あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない」と言います。この世界に存在するということは、神様の手によって造られ、この世界に送り出されたということ。誰一人として、神によって造られなかったものはいないのです。マザー・テレサは、「わたしたちは誰もが神様の最高傑作」と言いましたが、神様は何かを造るときに決して手抜きをすることがありません。どの作品も、「もうこれ以上はない」というくらい完璧に仕上げてからこの世に送り出します。この世界に存在するすべてのものは、神様が真心こめて作り上げた、神様の最高傑作なのです。人間がどう評価しようと、神様にとっては、すべての人が最高の価値を持ったかけがえのない存在なのです。
 ですから、神様はすべての人間を愛し、決して見捨てることがありません。ですが、人間は、神様のことを忘れ、神様の愛に心を閉ざしてしまうことがあります。それが「失われる」ということです。たとえば、わたしたちは、自分が神様から造られた被造物に過ぎないということを忘れて思いあがり、神様の愛に対して心を閉ざしてしまうことがあります。神様の愛に頼ることをやめ、すべてを自分の力で、自分の思った通りに動かそうとし始めるのです。
 逆に、自分が神様の手によって造られたということを忘れて自分を卑下し、神様の愛に心を閉ざしてしまうこともあります。何か大きな失敗をしたり、人生が自分の思った通りにならなかったりすると「わたしは生きる価値がない。生まれてこないほうがよかった」と考えて、自分を責めてしまうのです。心を固く閉ざした人は、神様がどんなにその人を愛していても、「わたしなんか愛される価値がない」という思い込みの中に閉じこもって出てこようとしません。
 自分が神様の被造物であることを忘れることから、わたしたちの不幸が始まると言っていいでしょう。エスは、そんなわたしたちに、自分が誰であるかを思い出させるためにやって来ました。わたしたちは誰もが、自分の力では何もできない存在であると同時に、神様の手によって造られたかけがえのない存在なのです。成功しているからといって思いあがってはいけないし、失敗ばかりだからといいって自分を卑下する必要もありません。造り主である神様のことを片時も忘れず、神の御旨のままに生きることがわたしたちの使命なのです。
 ザアカイは、イエスと出会って自分が「アブラハムの子」、神の子であることを思い出しました。だからこそ、神の愛の中で金持ちや役人としてのおごり高ぶりを捨て、徴税人としての自分を卑下することもやめて、苦しんでいる人たちに心を開くことができたのです。自分が神の被造物、神の子だと思い出すことから、わたしたち救いが始まります。日々の祈りの中で、自分が誰であるのかを思い出したいと思います。