バイブル・エッセイ(756)神様の愛の、目に見えるしるし


神様の愛の、目に見えるしるし
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。(マタイ1:18-24)
 人間は、目に見えないものをなかなか信じることができません。愛されているということはわかっていても、優しい言葉をかけてもらったり、プレゼントをもらったりしなければ、なかなか愛を信じることができないのです。そこで神様は、受肉し、目に見える姿をとることにしました。イエス受肉だけではありません。神様の愛は、わたしたち一人ひとりの心にも受肉しているのです。神様の愛は、わたしたちの心に宿り、優しい言葉や親切な行い、いたわりに満ちたほほ笑みとなってその姿を現します。これが、もう一つの「受肉の神秘」です。わたしたち自身が、神様の愛の目に見えるしるしとしてこの世界に遣わされたのです。わたしたちは、誰もがインマヌエルなのです。
 では、受肉の神秘はいつ起こるのでしょう。それは、わたしたちが誕生するときです。わたしたちの心には、生まれながらに神様の愛がしっかりと刻み込まれているのです。祈っているうちに、わたしたちはそのことに気づきます。祈りの中で、自分自身の一番深い望みがなんであるのかを探してゆくと、必ず愛にたどり着くのです。さまざまな望み、あれが欲しい、これがしたいというようなことを「ではなぜそれが欲しいのか、これがしたいのか」と尋ねて深くまでさかのぼってゆくと、必ず「愛されたいから」あるいは「愛したいから」という理由に辿り着くのです。人間は、愛のため、つまり愛し、愛されるために生まれてきたので、愛し、愛さない限り心が満たされることがありません。わたしの心の一番奥深くにあるのは愛、「神の愛」が心に宿っているということに気づくとき、わたしたちの生き方が変わります。
 もっとはっきりしているのは、誰かが苦しんでいるのを目にしたときです。たとえば熊本の被災地を訪れ、住む家を失った子どもたちや若い夫婦、高齢者たちが仮設住宅に身を寄せ合って暮らしているのを目にするとき、わたしたちの心は激しく揺さぶられ、「この人たちを放っておくことはできない。この人たちのために、何かしなければならない」という気持ちになります。それまで持っていた「あれが欲しい、これがしたい」というような気持ちも、どこかに行ってしまうくらい強く、熊本の人たちのために何かせずにいられないという気持ちが湧き上がってくるのです。たとえば、「これはハンドバッグを買おうと思っていたお金だけれど、これを熊本の人たちに」そんな気持ちになるのです。それこそ、わたしたちの最も深い望みが愛だということの動かぬ証拠だと思います。
 わたしたちは、神様の愛の目に見えるしるしとしてこの世界にやって来ました。わたしたち一人ひとりにイエスと同じ使命が与えられているのです。クリマスを迎えるにあたって、そのことを思い出したいと思います。神様は、わたしたちを通して今日、この世界を愛したいと願っています。言ってみれば、わたしたち一人ひとりが、神様からこの世界に与えられた愛のプレゼントなのです。日々の生活の中で「受肉の神秘」を生きる恵みを、神様に願いましょう。
※写真…熊本県益城町、木山仮設団地にて。