バイブル・エッセイ(758)希望の光


希望の光
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:1-5, 9-14)
 「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」とヨハネは言います。神様のことばが、イエスの生涯を通して栄光の輝きを放ったということです。こう考えたらわかりやすいでしょう。目に見えない電気は、電球を通ったとき光を放ち始めます。それと同じように、目に見えない神様のことば、神様の愛は、人間の体に宿るとき光を放ち始めるのです。人間が愛を生きるとき、この世界に希望の光がともるのです。
 愛には、二つの形があるようです。一つは、相手のために喜んで自分を差し出すこと、もう一つは、相手のためにあらゆる苦しみに耐えることです。こんな話を聞いたことがあります。あるとき、一人の司祭が、スラム街での奉仕のためフィリピンに派遣されることになりました。出発の前に、その司祭が重い病気で苦しんでいる友人のお見舞いに行くと、その友人は司祭に向かってこう言いました。「あなたは、健康の方で頑張ってください。わたしは、病気の方で頑張りますから。」
 つまり、健康なあなたは、貧しい人たちのために惜しみなく自分を差し出すことで愛の光を輝かせてください。わたしは、どんなに病気が進んでも決して希望を捨てず、神様のため、家族や友人たちのために祈り続けることで愛の光を輝かせますから、ということだと思います。この言葉には、大きな希望があるように思います。病気や高齢、障害などで表立った奉仕ができなくなったとしても、人間は最後まで愛の光を輝かせることができるのです。たとえ何もできなくなったとしても、命を与えてくださった神様のため、家族や友人たちのために精一杯に、前向きに生きることで、わたしたちは神の栄光をこの世界に輝かせることができるのです。
 今年の7月、相模原で痛ましい事件が起こりました。「社会のために役に立つ者には生きる価値があるが、社会のために役に立たない者には生きる価値がない」という歪んだ考え方が、大きな悲劇を生んだのです。言うまでもないことですが、このような考え方はまったく間違っています。むしろ、実際には逆だとわたしは思っています。「社会のために役に立たない者には生きる価値がない」というような考え方をする人ばかりで、弱者が切り捨てられていくような世の中なら、この世界は闇です。そんな愛のない世界には、何の価値もありません。病気の人たちや高齢者、障害者のために、自分を犠牲にして奉仕するような人たちがいるからこそ、この世界には生きる価値があるのです。厳しい困難の中でも希望を捨てず、前向きに生きようとする人たちがいるからこそ、この世界は希望の光で輝くのです。社会が人間に価値を与えるのではなく、人間が社会に価値を与える。人間の命の輝きこそが、あらゆる価値の根源であることを忘れてはなりません。人間の命が輝くような世界こそ、生きる価値のある世界なのです。
 わたしたちは、キリストにならって「闇の中に輝く光」となる使命を与えられました。まず、わたしたち自身の命を、それぞれの仕方で輝かせたいと思います。そして、力を合わせて、すべての人の命が輝く世界を作り上げたいと思います。クリスマスに、その決意を新たにしましょう。新年も、災害支援や病者訪問などあらゆる機会を通して神様の愛をこの世界に輝かせることができますように。