バイブル・エッセイ(759)思い巡らす心


思い巡らす心
 そのとき、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)
 マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」といいます。天使のお告げから始まって、出産、羊飼いの訪問と続く一連の出来事を、すべて心に納めて思い巡らしていたのです。それは、なぜこんなことが自分に起こるのか、理解できなかったらからでしょう。自分は恵まれた女性で、救い主の母となるはずなのに、なぜ大きなお腹で旅をしなければならなかったのか。なぜ宿屋に断られたのか。なぜ馬小屋で出産しなければならないのか。なぜ最初に訪ねてきたのが羊飼いたちだったのか。マリアは意味が分からないことだらけだったに違いないと思います。一言でいえば、「なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか」ということです。
 そんなとき、わたしたちは短気を起こして自暴自棄になったり諦めたりしてしまいがちですが、マリアは違いました。いますぐ理由はわからなくてもこの苦しみには必ず意味があると信じ、その意味を神に問い続けながら、自分に与えられた使命を精一杯に果たす道を選んだのです。
 その意味は、十字架上の死に至るイエスの生涯を通して少しずつ示されていきました。イエスが馬小屋で生まれたのは、誕生のときから死に至るまで、人間のすべての苦しみを担うため。そうすることで、社会の片隅に追いやられている人たちに、神様の愛を届けるためだったのです。マリアは、神の計画を悟って涙したに違ありません。マリアの苦しみには、確かに意味があったのです。それは、「神の母」として、イエスの救いの業を支えるための苦しみだったのです。一人の苦しみが、全人類の救いにつながる。これを「苦しみの神秘」と呼んでいいでしょう。
 どんなに苦しかったとしても、苦しみの意味を「思い巡らし」ながら、あきらめずに自分の使命を果たしてゆく中で苦しみ意味が示される。そんなことが確かにあると思います。たとえば先日帰天された渡辺和子さんは、お父さんを目の前で殺害されるなど、生涯にたくさんの苦しみを味わわれました。その苦しみを信仰によって乗り越える中で、渡辺さんはたくさんのことを学び、わたしたちに分かち合ってくださいました。渡辺さんの言葉は、頭で考えた言葉ではなく、苦しみの中で心の奥底から湧き出した言葉でした。その言葉によって励まされ、助けられた人は数知れません。渡辺さんの苦しみには、確かに意味があったのです。その苦しみは、人々を救うための苦しみでした。渡辺さんの生涯を通しても、「苦しみの神秘」は実現されたのです。
 わたしたちの苦しみにも、必ず意味があります。大切なのはあきらめないことです。「なぜわたしがこんな目に」と考え、答えがわからないとすぐに自暴自棄になる。それでは、いつまでたっても意味はわからないままです。「この苦しみにも必ず意味がある」と信じて、出来事の意味を「思い巡らし」ながら精一杯に生きていれば、いつか必ずその意味が分かる日がやって来ます。すべては、神の救いの業の中で起こってくる出来事なのです。「思い巡らす」心は信じ続ける心。わたしたちも、この1年を、「思い巡らす」心で生きられるよう祈りましょう。