バイブル・エッセイ(766)愚かなまでの愛


愚かなまでの愛
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:38-48)
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスは言います。これは、地上の知恵で考えたとき、まったく愚かなことでしょう。ですが、これこそが神の愛であることも事実です。神は、わたしたちが神に背いて悪事を働いているときでも、わたしたちを愛して下さっています。神に敵対し、神を傷つけるわたしたちを愛して下さいます。神の愛は、人間の目から見たときには愚かです。ですが、そんな神の愚かなまでの愛の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。
 相手から攻撃されると、わたしたちはつい感情的になって言い返してしまいます。自分を滅ぼそうとする相手を、こちらも滅ぼそうとするのです。だが、それは神の思いではありません。神は、どんな人間も救いたいと望んでおられるからです。わたしたちを攻撃するような憎い相手でも、神様の子どもであり、わたしたちの兄弟姉妹だということを忘れてはいけません。
 もちろん、何を言われても、黙ってへらへらしていろという訳ではありません。相手の救いのために言うべきことは言わなければなりません。ですが、感情的になって、相手の人格を否定するような言い方はすべきでありません。あくまでも、相手のことを思い、相手が救われることだけを願って言うのです。たとえば、自分の周りの人たちについて、不平不満や悪口ばかり言っている人に対して、「不愉快だからやめろ」というような言い方をしてはいけません。「人の悪口ばかり言っていれば、あなたの魂が滅びることになる。だから、そんなことはやめなさい」と言うべきなのです。
 喧嘩をしたときに、相手が謝ってくるまで絶対に和解しないというのも神の思いではありません。神は、一刻も早く兄弟姉妹が仲直りすることを願っておられるからです。わたしたちが互いにののしり合い、無視しあっているのをみるとき、神は悲しみます。だからこそ、相手の方が明らかに悪くても、こちらから先に謝るのです。「あんな言い方をして悪かった」ということから始めればよいでしょう。
 どうしても、「なぜ、あんな奴にそこまでしなければならないのか」という思いが浮かんできますが、それは人間の思いです。そんな相手でもゆるし、救おうとするのが神様の愛なのです。わたしたちは、愚かになることを選びたいと思います。世間の人々がわたしたちのことを見て、「なんであんなに簡単にゆるすんだ。何であんな損なことをするんだ。あいつら馬鹿だ」と言うくらいになれば理想的です。愚かなまでの神の愛を、地上に証してゆくことができますように。