バイブル・エッセイ(777)目に見えないものを信じる


目に見えないものを信じる
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:24-29)
 イエスが復活して現れたという他の弟子たちの話を、素直に信じることができなかったトマス。トマスの心には、きっと「自分だけが除け者にされた」という寂しさもあったことでしょう。トマスが疑っていたのは、復活の出来事よりも、むしろイエスの愛だったのです。そんなトマスに、イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけました。この言葉には、復活を信じなさいということだけでなく、「たとえ姿が見えず、声が聞こえなかったとしても、わたしはいつもあなたを愛している。わたしの愛を信じる者になりなさい」という意味も込められているように思います。
 ルカ福音書には、復活したイエスが、弟子たちに「信じなさい」ではなく、「どうして心に疑いを起こすのか」と語りかける場面があります。「信じる」ということの反対は、「疑う」ということでしょう。エスの愛を疑うとき、わたしたちの心に「これから一体どうなるのだろう」という恐れや不安が生まれます。恐れや不安は絶望、自暴自棄を生み、やがてわたしたちを滅びへと誘ってゆきます。それでだけではありません。イエスの愛を信じられないとき、兄弟姉妹の間に争いが起こります。「なぜ自分だけが愛されないのだ」と他の兄弟姉妹を妬み、イエスの愛を求めて他の兄弟姉妹と争うようになるのです。トマスがまさにそのよい例でしょう。エスの愛を疑うとき、わたしたちは心の平和を失うのです。
 逆に、イエスの愛を信じている限り、何も恐れる必要はありません。「たとえ目に見えなかったとしても、自分はイエスに愛されている。目に見えない大きな力に守られている。だから、何があっても大丈夫」。そう信じられる人は、どんな困難に直面したとしても、その困難を平気で乗り越えてゆくことができるでしょう。自分はイエスから十分に愛されていると信じられる人は、他の兄弟姉妹と争うこともありません。「わたしも愛されている、あなたも愛されている。なんてすばらしいことなんだ。神に感謝」という気持ちで、みんなと一緒に幸せに生きることができるのです。「見ないのに信じる人は、幸いである」というのは、きっとそういうことでしょう。
 見ないでは信じられない人間の弱さをよく知っておられるイエスは、わたしたちのために秘跡を残してくださいました。御聖体やゆるしの秘跡は、目に見えない神様の愛の、目に見えるしるしなのです。ですが、それでもやはり最後は、わたしたちが信じられるかどうかにかかっています。司祭が「キリストの体」と言っても、「ほんとかな、ただのパンじゃないか」と疑ったり、「あなたの罪はゆるされました」と言っても、「ほんとにゆるされたのかな」と疑ったりしていては、心から恐れが消えることはないし、幸せになることもできないのです。見えない愛は、信じる以外にありません。目に見えないものを信じられるかどうかに、私たちの幸せがかかっています。「信じない者ではなく、信じる者になれますように」と、心を合わせて祈りましょう。