バイブル・エッセイ(778)命に至る道


命に至る道
 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
 いわゆる、「エマオへの旅人」の場面が読まれました。「旅人」というと聞こえがいいのですが、実際には捕縛を恐れ、他の弟子たちと分かれてエルサレムから逃げてゆく弟子たちの話です。自分の命惜しさに、イエスを見捨てて逃げてゆく途中の弟子たちの目の前に、復活したキリストが現れたのです。イエスと出会った弟子たちは、時を移さず、とってかえしてエルサレムに向かいます。エスを見捨てて間違った方向に向かう弟子たちを、イエスが正しい道に立ち返らせた。それが今日の話の中心的なメッセージだと言っていいでしょう。エルサレムには、復活したキリストと出会った弟子たちが、そして聖霊降臨の出来事が待っています。滅びに至る道を歩いていた弟子たちを、イエスが「命に至る道」に連れ戻したのです。
 この話は、小説『クォ・ヴァディス』に描かれた、ペトロとキリストの出会いの物語と重なります。ネロによる迫害を逃れ、アッピア街道を通ってローマから逃げようとしていると、向こうからイエスがやって来る。「主よ、どちらへ行かれるのですか」(ドミネ・クォ・ヴァディス)とペトロが声をかけるとイエスは、「お前がわたしの兄弟を見捨てて逃げるなら、わたしが行ってもう一度十字架にかかろう」と答えた。それが、『クォ・ヴァディス』の物語です。ペトロはかつて、命惜しさにイエスを裏切ったことがありますが、このときまた同じ間違いを犯そうとしていました。そのペトロを、イエスが正しい道に連れ戻した。それが『クォ・ヴァディス』の物語の中心的なメッセージです。
 不安や恐れは目をくもらせ、道を誤らせます。エルサレムから逃げでエマオに向かう弟子たちにとっては、仲間たちが待つエルサレムこそ向かうべき場所、ローマから逃げるペトロにとっては、仲間たちが苦しんでいるローマこそ向かうべき場所だったのです。逃げてゆく弟子たちに、「メシアは苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったか」とイエスは言います。その言葉を聞いた弟子たちは、イエスが苦しみを受けて栄光に入ったこと。その言苦しみを恐れていては、命を惜しんでいては、栄光に入ることができないことに気づきます。だからこそ、そこから直ちに引き返し、エルサレムに向かったのです。
「苦しみを受けてこそ、栄光に入ることができる」、そのことを忘れないようにしたいと思います。命を惜しみ、労苦を恐れて楽な方に向かうとき、わたしたちは道をそれ、滅びに向かいます。苦しんでいる人たちのところに出かけて行き、その人々と共に苦しむことによってのみ、わたしたちは復活の栄光に入るのです。神のため、愛のために自分を差し出すことで、復活の栄光に入ることができるよう神の助けを願いましょう。